日時 | 1999年06月13日 |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『明日を支配するもの』 P.Fドラッカー著 ダイヤモンド社 1999年 |
範囲 | 第3,4章 |
報告 | 浅川 雅巳 |
本書は,「社長訓話的」,「経営指南書的」性格の章と「経済体制」,社会システムについての多少なりとも理論的考察が行われている章からなっているようである。章と章の関連も体系的な結びつきは認められず,それぞれ独立した諸章とみなした方がよさそうである。とはいえ,1章で,「パラダイム」すなわち視座,視点の確立を図り,2章で,外的環境としての社会システムの現況を分析し,3,4章では,具体的実践を論じるという心積もりがあるのかもしれない。
本性の構成は以下の通りである。
1 チェンジ・リーダーの条件 − 仕組みと手法
2 チェンジ・リーダーにとっての三つのタブー
3 チェンジ・リーダーのための手順と予算
4 継続性との調和
5 未来をつくる
ところが,本章の枕の部分では,この章の内容の一部を紹介して,
(1)変化のための三つの仕組み
(2)変化の機会を知るための手法
(3)変化のための手順と予算
(4)継続性との両立
という項目立てが示されている。実際の章立て1,2と(1),(2)は,必ずしも一致しない。このように,本書は,思いの外,未整理の部分を残しているといえそうである。
チェンジ・リーダーになるための条件は,体系的廃棄,継続的改善,成功の追求,イノベーションの4点である。
体系的廃棄;常時の点検によって,以下に該当するものを速やかに廃棄する仕組みを作るべし。廃棄の対象は,寿命が取りざたされるようになったもの,償却済みという理由だけで維持されているもの,新しいものの障害となっているものの3つである。
継続的改善;「すべてについて,体系的かつ継続的な改善をはかっていかなけれがならない」。改善の積み重ねはイノベーションをもたらす。
成功の追求;問題点ばかりでなく,予想外の成果が上がった点について検討を加えるべし。
イノベーション;チェンジ・リーダーになるためにイノベーションは必ずしも必要ではないが,体系的にイノベーションの機会を追求する仕組みを作ることによって組織内にチェンジ・リーダーたらんとする意識を浸透させることができる。
現実と平仄の合わないイノベーションをしてはならない。イノベーションと新奇さを混同してはならない。行動(明確な目的を持った行為)と動作(明確な目的を持たない行為)を混同してはならない。
チェンジ・リーダーは,全く新しい分野については,小規模なテスト――パイロットをしなければならない。チェンジ・リーダーは,予算の90〜80%を現在の事業の予算とし,残りを未来のための予算とすべきである。
チェンジ・リーダーとして成功するためには,変化を目的としつつも,継続性との調和を図らなければならない。そのための具体的方策として,変化のためのパートナーシップを継続的な関係の基盤にしてしまう方法がある。(→組み立てメーカーと[部品?]供給業者,経済連鎖会計 (注1) )[事業内容刷新のために,事業関係を持つ他の組織と共同して定期的に事業内容の見直しを行えということと理解した。]
情報の共有化を進めることが必要である。企業内部の各部署・各担当者間の情報共有である。[前段に述べられている事柄も,事業関係を結ぶ外部の組織との情報共有を不可欠の内容としている。]
変化は予測できないが,未来はつくりだせる。本章で述べたことを実行しないで成功することはない。[「信じるものは,救われる」!!]
結局のところ,この章が表現しているものは,資本主義における〈生産の無政府性〉と〈生産の社会化〉の矛盾である。
ドラッカーは,企業に対してフレキシビリティを要求する。単なる変化だけでなく,必要に応じて事業内容の継続と刷新を両立させよという。
ドラッカーの指摘を待つまでもなく,自己増殖する資本の実体化に他ならない企業は,自己の再生産すなわち事業継続を本性とするが,他方では,資本主義的生産の無政府性からくる,外的環境の予期できぬ変化に対応して,必要に応じて自己刷新を図らなければならない。経営多角化が賞揚される一方で,ドメイン重視の戦略が提起される。不採算部門の撤廃,雇用の「合理化」,事業の転換を必要に応じていかに軽快に行えるかが生き残りの鍵であるとされるのは,企業自体の大規模化が変化への即応を難しいものにしていることの現れなのである。
生産の社会化の進展により,個別資本内部の人的・物的資源の配分・管理・運用の計画化が発達してくるし,個別資本相互間でも支配・統合や「提携」・「共有化」などを進め環境の激変を制御しようとの試みが盛んになってくる(「独占」の形成)。しかし,それにもかかわらず,資本主義の枠内にとどまるかがり,生産の無政府性を揚棄することはできない。だから,他企業との協力関係を求める一方で,必要とあれば,いつでも「パートナー」を切り捨てることが必要だとされるのである。
経営を安定させるためには,生産を社会化し市場の変動をある程度制御しなければならないが,そのことが経営の「フレキシビリティ」を奪いかねないという矛盾がここにあるのである。ドラッカーは,最近の情勢の変化を強調するが,生産の無政府性自体は今に始まったことではない。生産の無政府性を制御しようという生産の社会化が無政府性への対応の足枷になるという矛盾,資本主義にはじめからあった矛盾が生産の社会化の進展と共にますます大きくなってきた考えるべきであろう。
P.103…「供給業者」は何を意味するのか?部品メーカーなのか,販売店なのか?
同上 …「変化のためのパートナーシップを継続的関係の基盤と」するとはどういうことな のか?報告者の理解でよいのか
特に議論となる論点はないように思える。強いて言えば,コメントで触れた矛盾のことか。
省略
科学技術は,一人ひとりの労働者の学識,知識,技能の限界を突破して自由に開発・集積・応用できるものとならなくてはいけない。そのためには,一般の労働者から科学技術を分離することが必要であり,一般の労働者には操作に必要な最低限の知識さえあればよい。ところが,科学技術の急速な発達は,この最低限の水準を引き上げずにはいない。そこで,いかに一般の労働者に発達する科学技術に関する知識を還元して行くかが大きな課題となってくる。一部の技術者が独占的に科学技術を支配していてよい時代は終わったとドラッカーは主張する。
科学技術を労働する諸個人から物象的に自立化させることによって,その急速な発展を実現しながら,他方では,労働する諸個人をこの科学技術にフォロー・アップさせることがますます必要となりながら,しかしその実現は困難になるという,資本主義(システム)の矛盾がここにある。(第1節)
また,結合労働が発展すればするほど,生産過程の全体的見通しを個々の労働者が持つことは難しくなる。しかし,そのような見通しを現場の労働者にもある程度持たせる必要は,ますます高まる。こうした矛盾を媒介する試みとして,情報を巡る諸々の工夫が追求されている(ドラッカーが,挙げるもの以外にも,各種経営参加制度,TQCetc.)。ドラッカーは,この矛盾が既に揚棄済みであるかのように自分自身を欺いており,システムの矛盾をマネジメント能力の問題に還元し,事実上システムを弁護する。(第2節)
第1節,第2節で事実上焦点化されていたシステムの問題のすべてを個人の工夫と努力の問題として説くことで本章は完結する。(第3節)
資本主義の発展に疎外・物象化の深化のみを見て,資本主義自身が同時に疎外・物象化の解決の諸条件を作り出していることを見ない,「単なる物象化論者」に対して,こうした諸条件が創出されている事実を捉えるドラッカーは,非常に優れている。疎外・物象化自体を認めない古典的「弁護論者」とは,もともと比べ物にならない。しかし,疎外・物象化の解決は資本主義の揚棄を通じてのみ可能であるのに,事実上,資本主義の枠内での解決を可能とするドラッカーは,結局のところ「弁護論者」としての役割を果たすことになる。