日時 | 1999年06月27日 |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『明日を支配するもの』 P.Fドラッカー著 ダイヤモンド社 1999年 |
範囲 | 第5,6章 |
報告 | 今井 祐之 |
この章は非常に重要である。何故ならば,既に述べたように,──第一に,知識労働の出現こそがドラッカーの現代資本主義論の本来的な出発点,すなわち個別的資本の内部での直接的生産過程での労働の振る舞いの変化だからである(客体的変革論としての知識労働論)。既にわれわれが見たように,結局のところ,ドラッカーのこの試みは現実そのものによって裏切られ,その結果として,ドラッカーは工場共同体の外部にある年金基金,NPOを救いの神にして,既にプロレタリア独裁が実現されているという大嘘をやらかした。しかし,それにも拘わらず,知識労働論こそはドラッカー理論の核心であり続け,ドラッカー理論の中で最も革命的なものであり,しかもなお総ての嘘の源泉であり続けている。年金基金社会主義が到来しようと,NPOが最大の成長産業になろうとも,ドラッカーは決して知識労働論を放棄し得ないのである。
第二に,知識労働者こそは,ドラッカーにとってプロレタリア独裁を自覚化するプロレタリア前衛であるべきだからである(変革主体論としての知識労働者論)。既に無自覚的に革命が行われてしまい,今では客体的にプロレタリア独裁が行われているのであるから,ドラッカーという特定の個人が大衆から疎遠な特定のプロレタリア前衛に説教するという仕方でしか意識変革は行われ得ないのである。そして,ただ知識労働者だけが,直接的生産過程の内部で生産手段を所有している──個人的所有を再建している──という点で,所有と労働との分離の止揚を自覚化し得る特権的資格 (注1) を持っているのである。
さて,プロレタリア独裁が実現していると主張するためには,どうしても肉体労働(manual work)として彼の主観に現れている個別的事実をごまかさなければならない。この美しいプロレタリア独裁の社会においても,肉体労働と知識労働との同一性は明瞭だからである。われわれはこのごまかしを第3節「テクノロジストたち」で見るであろう。
この美しいプロレタリア独裁の社会においては,個人的所有の再建は社会的所有の実現としてのみ可能であり,個人的労働は直接的に社会的な労働でなければならない(しかも非敵対的に)。個人性(個性)の実現は直接的に社会性(類的本質)の実現でなければならない。ドラッカーの場合には,プロレタリア独裁の社会は,組織社会,即,知識社会であったはずである。だから,ドラッカーは,否応なしにいまここで当事者意識に暴露されている私的労働と社会的労働との矛盾をどうにかして隠蔽し,個別的な知識労働と組織との美しい和解を演出しなければならないはずである。この試みは『ポスト資本主義社会』ではものの見事に失敗した。組織は個別的な知識労働から自立化してしまった。つまり,資本は知識労働者から疎遠な社会的威力として振る舞ってしまった。この『21世紀に向けてのマネジメントの挑戦』では,そもそもこのような試みを全く放棄してしまっているということを,われわれは第4節「システムとしての知識労働」で見るであろう。プロレタリア独裁が実現されているという大嘘をついた以上,今度はこの現実を隠蔽しなければならないのだ。ところで,マルクスの理論とは異なって,ドラッカーの理論では,プロレタリア独裁の社会に残っている矛盾は,ただ個人に負わされるものだけでなければならない。すなわち,システムそのものに矛盾があってはいけないのである。残されたのは,システムの総ての矛盾を隠蔽し,個人に責任転嫁するという最も恥ずべき所業である。ここで,ドラッカーの自己欺瞞と精神的退廃とはその頂点に達したのである(しかし,既に見たように,この欺瞞,この退廃こそはドラッカー理論の正常な帰結である)。
そもそもドラッカーの試みは,徹頭徹尾,直接的生産過程に拘泥してそこから資本主義的なシステムの正当化の危機を導出する(そしてそれを通じて新しい正当化され得るシステムへの展望を開く)ということにあった。知識労働者はもはや二重の意味で自由な労働者ではなく,一方では実質的に自由な労働する人格,他方では生産手段の自由な私的所有者である以上,ドラッカーのそもそもの試みから見ると,知識社会の出現は資本主義的なシステムの正当化の危機の問題として把握されなければならなかったはずである。だが,既に直接的生産過程の外部からの衝撃によってプロレタリア独裁が達成されてしまっているのであるから,このような問題は結局のところ放棄されるしかないのである。プロレタリア独裁の実現という嘘がいかにドラッカーという偉大な思想家を委縮させてしまったのか,われわれは第5節「企業の統治」で見るであろう(しかし,既に見たように,この委縮こそはドラッカー理論の完全な実現である)。
第6章の内容を詳しく検討する必要は全くない。ましてや,その説教に感化されるのは愚の骨頂である。ただ,このくされ思想家のくされ演説を思う存分,笑い飛ばせばいい。
ここでは,心に留めておかなければならないのは,ただ一つだけである。すなわち,何故にドラッカーがこのような愚劣な説教を繰り返さなければならないのかということである。どのような説教をここでしているのかということではなく,何故に説教をここでしているのかということである。だが,この点については,われわれは既に見てきた。ここでは,補足だけに留めておく。
これほど愚劣で醜悪で吐き気以外の何をももよおさない第6章であるが,それでもやはりドラッカーにとって第6章は絶対に必要な章なのである。われわれは“それ以前の諸章の鋭い分析に相応しくない説教だ”などと思ってはならない。あるいはまた,われわれは“これは大衆に受け入れてもらうためにドラッカーが工夫したのだろう”などと思ってもならない。そうではないのである。この第6章こそはドラッカーにとって絶対に必要な章であり,この書の中でドラッカー最も書きたかった章なのである。他の総ての章はこの第6章を書くためのお膳立てであるのに過ぎない。他の総ての章がなくてもこの書は成り立つが,この第6章がなければこの書──「行動せよと呼びかける本」(p.ix)──は成り立たないのである。第6章こそはドラッカーの総決算であり,完全な破綻の表明なのである。“鋭い理論家”ドラッカーと“くだらない説教家”ドラッカーとが同居しているのでは決してない。かの“鋭い理論家”の唯一の可能な帰結は“くだらない説教家”なのである。第6章のドラッカーこそは真のドラッカーである。
肉体労働の生産性:20世紀における成長の基盤は肉体労働(manual work)の生産性であった。肉体労働の生産性の発展はテーラーシステムによって達成された。
その原理:テーラーは,肉体労働をその単純な諸要素に分析(=分解)するということによって,熟練労働を,訓練さえ積めば誰にでもできる不熟練労働に貶めた。
その未来:先進諸国では,知識労働者の増大によって,肉体労働の生産性の向上は中心課題ではなくなりつつあり,またなくなる。
知識労働の生産性:21世紀における成長の基盤は知識労働の生産性である。
タスクは何であるのか:「知識労働の生産性における決定的な問題」は「タスクは何であるのか」ということである。肉体労働の場合には,タスクは所与であり,「どのようにワークがなされるべきであるのか」ということが決定的な問題であった。これに対して,知識労働の場合には,タスクは所与ではないから,他ならない知識労働者の主体的な決定によって与えられなければならない。そして,次に問題になるのは「質は何であるのか」ということである。知識労働の生産性は量ではなく質の問題である (注2) のだが,しかし他ならないこの質が何であるのかということは,“タスクは何であるのか”ということが明らかになって初めて明らかになる。
資本資産としての知識労働者:肉体的労働者がコストであるのに対して,知識労働者は資本資産である。だから,一方では,経営者は知識労働者を減らすのではなく増やさなければならない。ところがまた,他方では,知識労働は組織の中で初めて発揮され得るのにも拘わらず,知識労働者は,知識という生産手段の私的所有者であるから,組織に依存していない。ここに矛盾がある。経営者(という個人)は頑張りましょう (注3) 。
さて,ここまでドラッカーは純粋な知識労働──マルクスが言う一般的労働──のことを考えていたそうな。実際にまた,ドラッカーのように知識労働と肉体労働との疎遠な分離によって変革主体を規定しなければならない者にとっては,あたかも科学者が肉体労働を行わないかのような幻想を持ち続けなければならなかった。しかし,そのような幻想は現実的な資本主義的生産の中では粉々に粉砕される。肉体労働と知識労働との同一性は,それらの暴力的・階級的な分裂の中に真っ只中において,否応なしに姿を表している。ここで,ドラッカーがごまかしにごまかしを重ねるのがここでの議論である。ドラッカーの前進は嘘の前進である。
テクノロジスト:現実的な資本主義的生産では,「極めて多数の知識労働者」(p.149)は知識労働と肉体労働との双方を行う (注4) 。このような知識労働者をテクノロジストと呼ぶ。
テクノロジストと先進国の生産性:一方では純粋な知識労働の成果には国境はない。他方では,肉体労働の生産性の上昇にも国境はない (注5) 。だから,一国内で行われる教育によって取り込み得るのはテクノロジストだけである。そこで,テクノロジストの訓練が先進国の成長の鍵になる。
所詮は組織の中でしか発揮され得ないのが知識労働である。そこで,もし組織そのものが変革されなければ,全体として知識労働生産性は上昇しない。だからこそ,知識労働者がプロレタリア前衛として位置付けられなければならないのである。
「貨幣ではなく知識が統治する時に,『資本主義』は何を意味するのか。そして,知識労働者──また知識労働者の他には知識を所有し得ない──が真の資産である時に,『自由市場』は何を意味するのか」 (注6) 。
〔内容要約は愚劣かつ無意味なので省略〕
ここでのドラッカーの嘘八百の源泉は知識労働と肉体労働との疎遠な区別にある。すぐに予想がつくであろうが,ここでもドラッカーの根本的欠陥は分離を固定化するということにある。つまり,知識労働と肉体労働との分離──確かに,疑いなく,間違いなく,両者は現実的に分離している──を固定化するわけである。分離しているという事実から出発して,旅をしないでここの事実に帰ってくるわけである。
先ず,知識労働と肉体労働との同一性を,労働とは一体どういうものであるのかということの検討によって,確認してみよう。
労働は何よりも先ず,人間と自然との間での過程──人間が自然と自己との質料変換を自分自身の行為によって媒介し,規制し,制御するような過程──である。〔(1)〕自然素材〔=自然質料〕に対して人間はそれ自身,一つの自然力〔=自然の威力〕として相対する。自己自身の生活〔=生命〕のために使用し得る形態で自然素材〔=自然質料〕を取得するために,人間は自己の肉体性──腕や脚,頭や手──に具わっている自然諸力を運動させる。この運動を通じて自己の外部の自然に働きかけてこれを変化させるということによって,人間はそれと同時に自分自身の自然をも変化させる。人間は自分自身の自然の内に眠っている諸々の潜勢力を発展させ,そして自分自身の自然の諸力の遊戯を自分自身の統御に服させる。〔(2)〕われわれはここでは,労働の最初の動物的・本能的な諸形態を問題にしない。労働者が自分自身の労働力の売り手として商品市場に登場する状態にとっては,人間の労働が自己の最初の本能的な形態をまだ脱ぎ捨ててはいなかった状態は,太古的背景に遠ざけられている。われわれが想定するのは,専ら人間だけに具わっているような形態での労働である。蜘蛛は織匠の作業に似ている作業を行うし,また蜜蜂はその蝋の小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし,建築師は小室を蝋で建築する前に既に頭の中で建築しているということによって,最悪の建築師さえ最良の蜜蜂より始めから卓越している。労働過程の終わりには,労働過程の始めに既に労働者の表象の中に,従ってまた観念的に現存していた結果が出てくるのである。労働者は自然的なものの形態変化を引き起こすだけではなく,それと同時に自然的なものにおいて自己の目的を現実化させるのである。労働者はこの目的を知っており,この目的は労働者の行為の仕方・様式を法則として規定し,労働者は自己の意志をこの目的の下に従属させなければならない。そして,このように従属させるということは個別化された行動ではない。労働の全持続期間に亘って,労働する諸器官の緊張が必要になるだけではなく,注意力として現れる合目的的な意志が必要になる。しかも,この意志は,労働が労働自身の内容と労働の遂行の仕方・様式とによって労働者を魅了するということが少なければ少ないほど,それ故に労働者が労働を自分自身の肉体的・精神的な諸力の遊戯として楽しむということが少なければ少ないほど,ますます多く必要になる。
Die Arbeit ist zunächst ein Proceß zwischen Mensch und Natur, ein Proceß, worin er seinen Stoffwechsel mit der Natur durch seine eigne That vermittelt, regelt und kontrolirt. Der Mensch tritt dem Naturstoff selbst als eine Naturmacht gegenüber. Die seiner Leiblichket angehörigen Naturkräfte, Arme und Beine, Kopf und Hand, setzt er in Bewegung, um sich den Naturstoff in einer für sein eignes Leben brauchbaren Form anzueignen. Indem er durch diese Bewegung auf die Natur außer ihm wirkt und sie verändert, verändert er zugleich seine eigne Natur. Er entwickelt die in ihr schlummernden Potenzen und unterwirft das Spiel ihrer Kräfte seiner eignen Botmäßigkeit. Wir haben es hier nicht mit den ersten thierartig instinktmäßigen Formen der Arbeit zu thun. Dem Zustand, worin der Arbeiter als Verkäufer seiner eignen Arbeitskraft auf dem Waarenmarkt auftritt, ist in urzeitlichen Hintergrund der Zustand entrückt, worin die menschliche Arbeit ihre erste instinktartige Form noch nicht abgestreift hatte. Wir unterstellen die Arbeit in einer Form, worin sie dem Menschen ausschließlich angehört. Eine Spinne verrichtet Operationen, die denen des Webers ähneln, und eine Biene beschämt durch den Bau ihrer Wachszellen manchen menschlichen Baumeister. Was aber von vorn herein den schlechtesten Baumeister vor der besten Biene auszeichnet, ist, daß er die Zelle in seinem Kopf gebaut hat, bevor er sie in Wachs baut. Am Ende des Arbeitsprocesses kommt ein Resultat heraus, das beim Beginn desselben schon in der Vorstellung des Arbeiters, also schon ideell vorhanden war. Nicht daß er nur eine Formveränderung des Natürlichen bewirkt, verwirklicht er im Natürlichen zugleich seinen Zweck, den er weiß, der die Art und Weise seines Thuns als Gesetz bestimmt und dem er seinen Willen unterordnen muß. Und diese Unterordnung ist kein vereinzelter Akt. Außer der Anstrengung der Organe, die arbeiten, ist der zweckgemäße Wille, der sich als Aufmerksamkeit äußert, für die ganze Dauer der Arbeit erheischt, und um so mehr, je weniger sie durch den eignen Inhalt und die Art und Weise ihrer Ausführung den Arbeiter mit sich fortreißt, je weniger er sie daher als Spiel seiner eignen körperlichen und geistigen Kräfte genießt. [KI (2. Auflage), S.192–193]
なるほど,現代資本主義社会では,知識労働が肉体労働から区別されて現れる。しかし,そもそも労働過程一般においては,労働は精神的・肉体的諸力の物理的・生理的・化学的運動を統一する一般的・類的な行為である。現代資本主義において分裂して現れるようになる肉体労働も知識労働も,それらを統一する労働というものの一側面であるのに過ぎない。肉体労働も知識労働も,それ自体として切り離して考察される限りでは,労働そのものでは決してなく,労働の対象的な形態であるのに過ぎない。労働こそは肉体労働として現れるような自己の具体的形態と知識労働として現れるような自己の具体的形態とを媒介的に統一するのである。それ故に,どれほど分裂しようとも,純粋な肉体労働とか,純粋な知識労働とかいうものは実存しない。だからまた,大工業は,一方では肉体労働から知識労働を分離するが,他方で肉体労働そのものを知識労働に鍛え上げずにはいられない(これは完全に矛盾している。賃金労働者は肉体労働者でなければならず,肉体労働者であってはならない)。だからこそ,実際にはドラッカーはテクノロジストという形で自己逃避するのである。テクノロジストこそは肉体労働と知識労働との人格的な統一であるが,結局のところドラッカーはテクノロジストにプロレタリア独裁アメリカの将来を預けてしまっているのである。
さて,肉体労働と知識労働とが同一のものである以上,現実的には,先進国(つまりプロレタリア独裁アメリカ)においては,肉体労働者にとっても知識労働者にとっても「組織」そのものが自立化しているのである。知識社会と組織社会とは美しい統一を保つのではなく,徹底的に矛盾するのであり,しかも資本主義社会はこの矛盾を暴露するのである。知識労働論はそのような暴露において資本主義社会の危機論として展開されなければならなかったのである。
次に,ドラッカーによる嘘八百のテーラー評価を見てみよう。ドラッカーほどテーラーの偉大さを評価しているものはいないのであるが,それにも拘わらず,ドラッカーはテーラーの真の歴史的意義を(他のどこでもというわけではないが,少なくともここでは)見落としてしまっているのである。ドラッカーはテーラーの手法を次のように説明する。──
肉体労働者を生産的にする際の最初のステップは,当該タスクを見て,その構成要素をなす諸動作を分析〔=分解〕するということである。次のステップは,各々の動作と,それが要する肉体的努力と,それが要する時間とを記録するということである。そうすれば,必要ではない動作を排除するということができるようになる。実際にまた,われわれは,肉体労働を見る時にはいつでも,伝統的に最も神聖視されてきた手続きの中の非常に多くのものが実は無駄なものであり,何をも付け加えないということを見出すであろう。そうすれば,今度は,最終生産物の獲得に必要不可欠なものとして残っている諸動作の各々は,最も単純な仕方で,最も平易な仕方で,オペレータが被る肉体的・精神的緊張が最も少ないような仕方で,最も時間がかからないような仕方でなされるようにセットアップされるようになる。そうすれば,今度は,これらの動作は再び一つに纏めあげられて,論理的な順序で並ぶ「ジョブ」になる。最後に,これらの動作を行うために必要な道具が設計し直されるようになる。〔……〕〔第162〜163頁〕
The first step in making the manual worker productive is to look at the task and to analyze its constituent motions. The next step is to record each motion, the physical effort it takes and the time it takes. Then motions that are not needed can be eliminated — and whenever we have looked at manual work we found that a great many of the traditionally most hallowed procedures turn out to be waste and do not add any thing. Then each of the motions that remain as essential to obtaining the finished product is set up so as to be done the simplest way, the easiest way, the way that puts the least physical and mental strain on the operator, the way it requires the least time. Then these motions are put together again into a “job” that is in a logical sequence. Finally the tools needed to do the motions are being redesigned.[...] [p.136–137]
これは非常に簡潔な,且つ的を得た説明であって,労働者がシャベルで砂を掘っているのをテーラーが観察している姿が目に見えるようである。ところが,このこと自体は決して,20世紀のテーラーの独自性ではなく,大工業一般の独自性なのである(そして,大工業の独自性は総て労働の独自性に基づいている。大工業こそは労働の概念照応的な形態である)。
作業場の内部でのマニュファクチュア的分業について妥当することは社会の内部での分業についても妥当する。手工業とマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基盤〔Grundlage〕をなしている限りでは,排他的な一生産部門の下への生産者の包摂,生産者の仕事〔Beschäftigungen〕の本源的な多様性の破壊〔Zerreißung〕は必然的な発展契機である。〔……〕人間たちに対して彼ら自身の社会的生産過程を覆い隠していたベール,且つ自然生的に特殊化された様々な生産諸部門を互いに──しかも各部門の精通者にとってさえ──謎にしていたベールを,大工業は引き裂いた〔zerreißen〕。各生産過程を,それ自体として,差し当たっては人間の手をなんら考慮せずに,その構成諸要素〔constituirende Elemente〕に分解する〔auflösen〕という大工業の原理は,テクノロジーという全く近代的な科学を創り出した。社会的生産過程の色々な──外見上では連関のないかのように見える──骨化した諸姿態は,自然科学の意識的・計画的な──そして目的にされた有用効果に応じて体系的に〔systematisch〕特殊化された──適用に分解された〔sich auflösen〕。テクノロジーは,人間的身体のあらゆる生産的な行為するということ〔Thun〕が──充用される用具がどれほど多様であろうとも──必然的に行われる少数の大きな基本的運動諸形態〔die Grundformen der Bewegung〕を発見したのであり,それはちょうど,機械学が,単純な機械的諸力能の絶え間ない反復──機械がどれほど複雑であろうとも──を見誤らないのと同様である。現代的工業は,生産過程の現存の形態を決して最終的なものとしては見做さないし,またそのようなものとしては取り扱わない。だから,これまでの総ての生産様式の技術的基礎〔Basis〕が本質的に保守的であったのに対して,現代的工業の技術的基礎は革命的なのである。機械設備,化学的過程〔=工程〕,またその他の方法によって,現代的工業は生産の技術的基盤を変革するのとともに,労働者の諸機能と労働過程の社会的諸結合〔Kombinationen〕とを絶えず変革する。それとともに,現代的工業は,社会の内部での分業にも同様に絶えず革命を起こし,大量の資本と大量の労働者とを或る生産部門から他の生産部門へ止むことなく投げ入れる。それ故に,大工業の本性は,労働の転換,機能の流動,労働者の全面的可動性を条件にする。他方では,大工業は,その資本主義的形態においては,古い分業をそれの骨化した分立性〔Partikularitäten〕とともに再生産する。既に見たように,この絶対的な矛盾が労働者の生活状態のいっさいの平穏性・堅牢性・安全性を止揚し,労働手段とともに絶えず生活手段を労働者の手から叩き落とそうとしており,そして労働者の部分機能とともに労働者自身を過剰なものにしようとしている。しかも,既に見たように,この矛盾は労働者階級の絶え間ない犠牲の祭典,諸労働力の際限ない浪費,および社会的無政府性の荒廃状態の中で暴れ回る。これらのことは否定的側面である。しかし,労働の転換がいまや,ただ圧倒的な自然法則としてのみ──また至る所で障害に突き当たる自然法則の盲目的・破壊的な作用を伴ってのみ──貫徹されるとすれば,大工業は,諸労働の転換,それ故にまた労働者の可能な限りでの多面性を一般的な社会的生産法則として承認するということ,そしてこの法則の正常な現実化に諸関係を適合させるということを,自己の破局そのものを通じて死活問題にする。大工業は,資本の変転する搾取欲求のために予備として保有され自由に利用され得る貧困な労働者人口という奇怪事の代わりに,変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくるということを,すなわち,一つの社会的な細部機能の単なる担い手であるのに過ぎない部分個人の代わりに,自己にとっては様々な社会的機能が〔そっくりそのまま〕自己がかわるがわる行う〔自己の内部での〕活動様式〔Bethätigungsweisen〕であるような全体的に発達した個人をもってくるということを死活問題にする。大工業という基盤上で自然生的に発展してこの変革過程の一つの契機になるのは総合技術および農学の学校であり,もう一つの契機になるのは労働者の子供たちがテクノロジーと様々な生産用具の実践的〔=実際的〕な取り扱いとについて或る程度の教育を受ける「職業学校」である。工場立法は資本からやっともぎ取った最初の譲歩として単に初等教育を工場労働に結び付ける〔verbinden〕のに過ぎないのに対して,労働者階級による政治権力の不可避的な獲得は理論的・実践的なテクノロジー的教育のためにも,労働者学校においてその占めるべき席を獲得するであろうということには疑う余地がない。同様にまた,生産の資本主義的形態とそれに照応する労働者の経済的諸関係とが,そのような変革の諸酵素とも,また古い分業の止揚というその目的とも真っ正面から矛盾しているということにも疑う余地がない。けれども,一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展はそれの解体とそれの新たな姿態形成との唯一の歴史的な道なのである。「靴屋は靴以外のことに手を出すな!」 ──手工業的英知のこの究極は,時計工ワットが蒸気機関を,理髪師アークライトが経糸織機を,宝石細工職人フルトンが汽船を発明した瞬間から,ばかげた文句になったのである。
Was von der manufakturmäßigen Theilung der Arbeit im Innern der Werkstatt, gilt von der Theilung der Arbeit im Innern der Gesellschaft. So lange Handwerk und Manufaktur die allgemeine Grundlage der gesellschaftlichen Produktion bilden, ist die Subsumtion des Producenten unter einen ausschließlichen Produktionszweig, die Zerreißung der ursprünglichen Mannigfaltigkeit seiner Beschäftigungen, ein nothwendiges Entwicklungsmoment. [...] Die große Industrie zerriß den Schleier, der den Menschen ihren eignen gesellschaftlichen Produktionsproceß versteckte und die verschiednen naturwüchsig besonderten Produktionszweige gegen einander und sogar dem in jedem Zweig Eingeweihten zu Räthseln machte. Ihr Princip, jeden Produktionsproceß, an und für sich, und zunächst ohne alle Rücksicht auf die menschliche Hand, in seine constituirenden Elemente aufzulösen, schuf die ganz moderne Wissenschaft der Technologie. Die buntscheckigen scheinbar zusammenhangslosen und verknöcherten Gestalten des gesellschaftlichen Produktionsprocesses lösten sich auf in bewußt planmäßige und je nach dem bezweckten Nutzeffekt systematisch besonderte Anwendungen der Naturwissenschaft. Die Technologie entdeckte ebenso die wenigen großen Grundformen der Bewegung, worin alles produktive Thun des menschlichen Körpers, trotz aller Mannigfaltigkeit der angewandten Instrumente, nothwendig vorgeht, ganz so wie die Mechanik durch die größte Komplikation der Maschinerie sich über beständige Widerholung der einfachen mechanischen Potenzen nicht täuschen läßt. Die moderne Industrie bertrachtet und behandelt die vorhandne Form eines Produktionspeocesses nie als definitiv. Ihre technische Basis ist daher revolutionär, während die aller früheren Produktionsweisen wesentlich konservativ war. Durch Maschinerie, chemische Processe und andre Methoden wälzt sie beständig mit der technischen Grundlage der Produktion die Funktionen der Arbeiter und die gesellschaftlichen Kombinationen des Arbeitsprocesses um. Sie revolutionirt damit ebenso beständig die Theilung der Arbeit im Innern der Gesellschaft und schleudert unaufhörlich Kapitalmassen und Arbeitermassen aus einem Produktionszweig in den andern. Die Natur der großen Industrie bedingt daher Wechsel der Arbeit, Fluß der Funktion, allseitige Beweglichkeit des Arbeiters. Andrerseits reproducirt sie in ihrer kapitalistischen Form die alte Theilung der Arbeit mit ihren knöchernen Partikularitäten. Man hat gesehn, wie dieser absolute Widerspruch alle Ruhe, Festigkeit, Sicherheit der Lebenslage des Arbeiters aufhebt, ihm mit dem Arbeitsmittel beständig das Lebensmittel aus der Hand zu schlagen und mit seiner Theilfunktion ihn selbst überflüssig zu machen droht; wie dieser Widerspruch im ununterbrochnen Opferfest der Arbeiterklasse, maßlosester Vergeudung der Arbeitskräfte und den Verheerungen gesellschaftlicher Anarchie sich austobt. Dieß ist die negativ Seite. Wenn aber der Wechsel der Arbeit sich jetzt nur als überwältigendes Naturgesetz und mit der blind zerstörenden Wirkung eines Naturgesetzes durchsetzt, das überall auf Hindernisse stößt, macht die große Industrie durch ihre Katastrophen selbst es zur Frage von Leben oder Tod, den Wechsel der Arbeiten und daher möglichste Vielseitigkeit der Arbeiter als allgemeines gesellschaftliches Produktionsgesetz anzuerkennen, und seiner normalen Verwirklichung die Verhältnisse anzupassen. Sie macht es zu einer Frage von Leben oder Tod, die Ungeheuerlichkeit einer elenden, für das wechselnde Exploitationsbedürfniß des Kapitals in Reserve gehaltenen, disponiblen Arbeiterbevölkerung zu ersetzen durch die absolute Disponibilität des Menschen für wechselnde Arbeitserfordernisse; das Theilindividuum, den bloßen Träger einer gesellschaftlichen Detailfunktion, durch das total entwickelte Individuum, für welches verschiedne gesellschaftliche Funktionen einander ablösende Bethätigungsweisen sind. Ein auf Grundlage der großen Industrie naturwüchsig entwickeltes Moment dieses Umwälzungprocesses sind polytechnische und agronomische Schulen, ein andres sind die „coles d enseignement professionnel“, worin die Kinder der Arbeiter einigen Unterricht in der Technologie und praktischen Handhabe der verschiednen Produktionsinstrumente erhalten. Wenn die Fabrikgesetzgebung als erste, dem Kapital nothdürftig abgerungene Koncession nur Elementarunterricht mit fabrikmäßiger Arbeit verbindet, unterliegt es keinem Zweifel, daß die unvermeidliche Eroberung der politischen Gewalt durch die Arbeiterklasse auch dem technologischen Unterricht, theoretisch und praktisch, seinen Platz in den Arbeiterschulen erobern wird. Es unterliegt eben so wenig einem Zweifel, daß die kapitalistische Form der Produktion und die ihr entsprechenden ökonomischen Arbeiterverhältnisse im diametralsten Widerspruch stehn mit solchen Umwälzungsfermenten und ihrem Ziel, der Aufhebung der alten Theilung der Arbeit. Die Entwicklung der Widersprüche einer geschichtlichen Produktionsform ist jedoch der einzig geschichtliche Weg ihrer Auflösung und Neugestaltung. „Ne sutor ultra crepidam!“, dieß nec plus ultra handwerksmäßiger Weisheit, wurde zur furchtbaren Narrheit von dem Moment, wo der Uhrmacher Watt die Dampfmaschine, der Barbier Arkwright den Kettenstuhl, der Juwelierarbeiter Fulton das Dampfschiff erfunden hatte. [KI (2. Auflage), S.464–467]
シャベルの神話に目を奪われてはならないのである。問題は寧ろ,テーラーは何故に複雑労働を単純労働に,熟練労働を不熟練労働に分解し得たのかということであろう。答えは明瞭である。機械設備を前提していたからである。
機械設備の出現によって,機械設備を媒介にして,個別的労働は労働は認識的にだけではなく現実的にも,理論的にだけではなく実践的にも,テクノロジー的に分解される。しかし,それだけではない。機械設備は社会的労働を前提しているから,機械設備の客体的編成が労働の主体的編成をテクノロジー的に規定するようになる。しかしまた,機械設備の編成が力学的・非有機的であるのに対して,社会的労働の組織(Organisation)は有機的(organisch)である(そもそも個人的労働が有機的である)から,この関係は決して一義的ではない。だからまた,機械設備の科学的な編成と労働の科学的な編成との間にはタイムラグが必然的に生じるし,労働編成そのものが(機械設備の編成と無関係では決してなく,それどころかそれを前提するのだがが,しかしなおそれから相対的に独立的であるような)独自なテクノロジーの適用分野をなすのである(管理工学の発生)。
ドラッカーの説明を聞くと,なにかテーラーにとってシャベル掘りが本質的であるかのようである。そうでは決してなく,(1)機械設備を前提にしながら労働の分解の現実化を独自のテクノロジー分野において行ったということ,(2)機械設備の客体的編成による社会的労働の主体的編成の規定を独自のテクノロジー分野において行ったということ──この二点こそがテーラーの独自性だったのである。
しかし,上に引用したマルクス大工業論の意義はただテーラーの独自性という特殊的問題にのみ関連しているのでは決してない。間抜けな俗流“マルクス主義者”が管理労働者を資本家として前提したままにしておくのと全く同様に,間抜けなドラッカーは知識労働者を階級として自立化させたままにしておこうとする。管理労働者と知識労働者とを入れ替えてみよう。ドラッカーこそは最も見苦しい俗流“マルクス主義者”なのである。
ドラッカーが肉体労働に疎遠な知識労働を前提したまま措定しないのに対して,マルクス大工業論こそは(1)労働過程論での知識労働と肉体労働との区別された同一性に基づいて,(2)資本主義的生産(殊に大工業)の中から知識労働が肉体労働から区別されたものとして現れ,遂には知識労働者(という人格)と肉体労働者(という人格)との人格的な対立にまで発展するということの必然性を明らかにしているだけではなく,(3)それと全く同時に他ならない資本の大工業が知識労働と肉体労働との絶対的(人格的)な対立を相対化する契機さえをも生み出さずにはいられないということの必然性をも明らかにしている。
問題は肉体労働と知識労働との分離を前提するだけではなく,措定するということである。分離をその発生において把握するということである。これに対して,ドラッカーにはこの分離は絶対に説明不可能である。ドラッカーはただ分離を前提して,機能分析しているだけである。
引用和文中の傍点での強調は著者自身,下線での強調は今井による。同様にまた,但し書きがない限りでは,引用欧文中の italic での強調は著者自身,bold での強調は今井による。
文中での引用と参照指示とで書名・論文名が省略されてページ数だけが書かれている場合には,それは『明日を支配するもの』からの引用である。また,その場合には,ページ数の“第[n]頁”はドラッカー(1999)のページを,“p.[n]”はDrucker (1999)のページを指示している。
(注1) われわれは,ドラッカーとは異なって,資本主義のもとでの肉体労働の生産性の発展は現在では直接的に,しかしまた過去にも媒介的に知識労働の発展であると考える。われわれの出発点は肉体的労働と知識労働との分離ではなく,それらの同一性である。だから,われわれは,もちろん,ドラッカーの知識労働者を全労働者に拡張し得る。しかし,ドラッカー自身に即しては,正にそのような拡張が不可能であるという点,正に知識労働が肉体的労働から区別されているという点に固執しうるのであるから,ドラッカーの意識変革では,意識変革の媒体がドラッカーという特別な個人(特別な天才)であるだけではなく,意識変革されるべきである労働者も特別な労働者(肉体労働者から区別される知識労働者)であるしかない。このような意味で,ドラッカーの意識変革は特権的な意識変革であるしかない。
(注2) このような馬鹿馬鹿しいお話にこれ以上付き合う必要はない。実際にまたドラッカーが挙げている質の問題とは総て量の問題に還元されなければならないようなものである。
(注3) 言うまでもなく,これはシステムそのものの矛盾であり,システムそのものの変革によってしか止揚され得ない。ところが,既に見たように,ドラッカーの場合には,既にプロレタリア独裁が実現されてしまっているのであるから,システム的矛盾は,本来的に実存し得ないのである。もし仮に万が一,システム的矛盾が実存しているとすれば,それは資本主義社会の残滓,負の遺産でしかないであろう。だから,このような矛盾は(非システム的な矛盾であろうと,なお残存しているシステム的矛盾であろうとも,いずれにせよ)個人の努力によって,そしてそれを媒介にして諸個人間での社会的な調整によって(つまりシステムそのものの変革によってではなく)解決されるしかないのである。
(注4) 先ず第一に,a very large numberというのが欺瞞に満ちている。実際には科学者であろうと経営者であろうと,樽の中のディオゲネスじゃあるまいし,純粋な知識労働を行っているわけではない。知識を活用するということは肉体を活用するということである。知識労働しか行わないような知識労働者は一人もいない。もしそのようなものがあるとすれば,それは労働者ではなく,神であろう。しかし,より重要なことに,全く同じ意義付けにおいて肉体労働しか行わないような肉体労働者は一人もいない。もしそのようなものがあるとすれば,それは労働者ではなく,動物であろう。肉体を活用するということは知識を活用するということである。
(注5) ドラッカーの嘘の前進をこれ以上,細かく追跡する必要はない。肉体労働の生産性の上昇に国境がないのは知識労働の成果の適用に国境がないからである。
(注6) 本来的には,これこそは体制の危機の問題であり,ドラッカーの決定的な問題関心であったはずである。問題はこうである。──(i)そもそも,経営者独裁によって個人的な私的所有者(個人的な私的資本家)による直接的生産過程の正当な統治は否定された(ここで,非所有者としての経営者──しかしまた非労働者としての労働者──による統治が暴露された);(ii)次に,年金基金による所有者統治によって資本の直接的生産過程は外側から危機に曝された(ここで,所有者としての労働者集団による統治が暴露された);(iii)今では,知識労働者による労働者統治によってそれは内側から危機に曝されるようになる(ここで,遂に労働者としての労働者による統治が暴露されるようになる)──と。これこそはドラッカーの独壇場であるはずであった。だが,ドラッカーにとっては既にプロレタリア独裁が実現してしまっているから,このような問題は危機論としては放棄されなければならないのである。 ドラッカーと同様にわれわれも直接的生産過程の内部での労働者独裁を高く評価するが,しかしその位置付けはわれわれとドラッカーとの間で正反対に異なる。労働者独裁は,ドラッカーにとっては否定の否定であるのに対して,われわれにとっては自己否定の極限である。そこでの敵対性は,ドラッカーにとってはプロレタリア独裁の敵対性であるのに対して,われわれにとってはブルジョア独裁の敵対性である。