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神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。ちょっと,現在,忙しいので簡
単なお返事だけを。
コメント,どうもありがとうございます。ようやくお互いの視点の違いがハ
ッキリしてきたような気がします。
>「進歩主義史観」の立場に対する批判が問題意識なのですね。
古典派評価(なんで俺が古典派を新自由主義から区別するのか)に関する限
りではね。それともう一つ,「解体」稿問題=マルクス理論の位置付け問題。
趣味の(学史家たちの)古典派評価ではない実践的な古典派評価は,結局のと
ころ,マルクス理論の位置付け問題に帰着しますからね。
>生きた人間たちが状況と対峙しながら選び取り、また行きつかざるを得
>なかった歴史の展開を、後からこっちが進歩的だった、進歩的なものはよ
>い、とする現実追認、「客観主義」が、問題なのだ、といったら、簡略過
>ぎましょうか。
正にその通りなのです。進歩主義史観=客観主義。一つ一つの命題をとって
みると──あるいはその命題の前提をとってみると──,手放しで正しいも
の,あるいは少なくとも反証不可能なものが多いのです。神山さんもよくご存
じのように,これに対して反動的左翼の感傷的反論を対置しても勝ち目はあり
ません。
>政策は、中間物として現れますから。思想のほうはすっきりしているの
>かというと「一応」のような気がしますが。
新自由主義思想なんて徹底することができないのは当たり前。但し,思想の
方には,少なくともすっきりさせよう,徹底させようという努力があるわけで
す。政策の方はいきなり妥協の産物で最初からゴッタ煮ですから,かなり厄介
です(神山さんがおっしゃる「中間物」)。
>そもそもハイエクが「新」自
>由主義なのか、私は今のところはっきり考えてません。フリードマンとも
>かなり違うし。
どっちも新自由主義だと思いますよ。先ず,“自由主義”という点について
言うと,やはり国家に対して自覚的に個人・市場を対置する立場は,歴史的文
脈の中では,総て自由主義と言っていいと思います。もちろん,思想内容には
大きな相違があるでしょう。スターリン主義も新左翼も同じくマルクス主義で
ありながら,相違があるのと同様に。これはこれで,彼らの間での内ゲバとし
てやってもらえればいいのであって,われわれにとっては,全部同じ根っこか
ら分生した自由主義なのでは?
[*1]新自由主義者たちは個人と市場との対立を視野に入
れないで,素朴に国家と個人・市場との対立だけに着目
するわけです。ですが,もともと自由主義というのがそ
ういう狭隘な視野に立っているということ,従って現実
性の中では徹底することも一貫することも不可能である
ということを
次に“新”という点について言うと,ソ連社会主義およびケインズ主義を経
験した上での自由主義は総て,危機意識に対する危機意識という点で,“新”
と形容されていいと思います。もちろん,この区別は思想の内容によってなさ
れるわけではありません。具体的な歴史的文脈によってなされるわけです。
“[ism-study.7] On "New Liberalism" etc.”(1999/07/24 22:25)をご覧く
ださい。一言付け加えておくと,もちろん,そのような具体的な歴史的文脈の
相違は思想の内容の相違にも反映するでしょう。
>その現実化といえるのか、いえるともおもえますが。
サッチャー政策,レーガン政策,中曾根政策はどれも,新自由主義政策であ
るのかどうかわかりませんが,新自由主義思想の現実化ではあるでしょう。な
にしろ,これらの政策(特にレーガン政策,中曾根政策)がやっていることが
どれほど反自由主義的であって[*1]も,それでもやはり時代の当為は新自由主
義であったし(ここには異論の余地があるかもしれませんが),それらの政策
はそのような思想に乗っかっちゃったわけであり,またそのような仕方でしか
思想は現実化することはできませんから。一方では政策の方は正当化を必要と
し,他方では思想の方は現実化を必要としているわけです。但し,われわれに
はお馴染みの,現実性剥奪としての現実化です(要するに,ブルジョア社会で
の現実化です)。なにしろ分裂して,反対物に転回しちゃうんですから。神山
さんがおっしゃる通り,新自由主義思想が新自由主義政策としての現実化にお
いて経験しなければならないのは,──
>政策としての新自由主義は「本来的な正当性」(私的所有)には無自覚
>で、だらしなく、民営化のような全体論的な公共性をたて、効率性として
>も、徹底されてないでしょう。
ということです。これに対して,“いやそれは現実化ではなかったのだ。新自
由主義政策は俺たちを騙したのだ”というのは新自由主義思想の方の感傷的言
い訳。われわれにとっては,正にこれこそが新自由主義思想の現実化=現実性
剥奪なのだと思います。
[*1]“[ism-study.11] Re^2: On "New Liberalism"
etc.”(1999/07/27 17:11)で俺が「その現実化であっ
たはずの新自由主義政策」というように「はずの」を付
けているのは新自由主義政策は現実的には反自由主義政
策だったからです。