本文


 長文の詳しいお返事を書いていただいて感謝しております。

> 交換によって,主体(商品所持者)は,──
> 
> Gleiche(同等なもの)──客体(商品)に即してはEquivalente(等価のもの)
>   ↓
> Gleichgeltende(等しいものとして妥当するもの)
>   ↓
> Gleichgültige(互いに無関心な,没交渉なもの)
> 
> というように,次々と規定されていきます。ベンサムは正にこの「無関心なも
> の」(Gleichgültige)に関わっているわけです。取り敢えず,形式的平
> 等の形式化(=形骸化)が単純商品流通の枠内で行き着いた先が没交渉性
> (Gleichgültigkeit),自分のことしか考えない私利私欲の塊だと俺は考
> えます。
>  それでは,この没交渉性は専ら平等にのみ関わっているのかと言うとそんな
> ことはないのですね。もう一方の極である自由を考察しても,やはりこの没交
> 渉性が出てくるわけです。

 「平等の形骸化」という視点は、ベンサム発生の説明としてありそうな気がし
ます。これが個人をたんなる経済人に一面化するための前提といえるかもしれま
せん。
 ベンサムは社会的生産の敵対性を隠すために登場した「俗物の元祖」ではある
のですが、単純流通をそれ自体論理的につきつめてゆくと自由主義がベンサムに
転化するという面をもっているかもしれません。
 適当な感想ですみません。

> 「本来的な結果」は団結(資本の生産過程で事実的・無自
> 覚的・物象的に形成されている社会性を,最初は先ず,取り敢えずは,階級の
> 内部で公然と承認していくということ)になるわけです。

 前の投稿ではほとんど個人的な政治生活上の悩みというか愚痴を書いてしまい
ましたが、ご丁寧にお答えいただきありがたく思います。
 正月にテレビで『ジェルミナール』を見たんですが、あれを見てぼくはすっか
り暗澹たる気持ちになってしまいました。主人公の革命家はそれほど間違った方
針を取っていたわけじゃないと思うんですが、結果として個別闘争にも階級的組
織化にも失敗し、労働者に悪魔呼ばわりされツバをかけられて現場を去っていき
ました。
 社会性承認と敵対性自覚の要求は具体的な場面では矛盾することがままあるわ
けで、そのなかに身を置かねばならないのが革命家の宿命なのでしょうが、現代
のサラリーマン活動家はツバをかけられる前に人事異動していなくなったりして、
困るのは残された現場の人たちで‥‥また愚痴を書いてしまった。

> なにも二者択一しなければならないってことはありません。二枚舌で行きまし
> ょう。リスク回避,リスク回避。

 『共産党宣言』でブルジョア体制打倒の要求と(ブルジョア社会でも実現可能
な)民主主義的要求が書かれているのも“二枚舌”路線なのでしょうね。