本文
ちょっと補足です。
俺は“[ism-study.47] Questions About "Person"”(1999/08/18 11:39)
の注3の中で,──
>本来的には,資本は人格ではありません。
と述べています。ところが,マルクスはしばしば“資本は人格化された生産手
段(あるいは人格化された生産条件,あるいは人格化された生産手段+生活手
段)である”と述べています。主語が資本家ではなく,資本であるということ
にご注目ください。つまり“資本家=人格化”だけではなく,“資本=人格
化”という表現をもマルクスは使っているわけです。もし後者の表現を用いる
ならば,「資本は人格ではありません」という俺の命題は,あたかも,“資本
は人格化である”というマルクスの命題と対立するかのように見えます。
それでは,(1)このマルクスの表現はどのように理解すればいいのでしょう
か。(2)それは法人化現象とは違うのでしょうか。(3)もし違うとしたら,「本
来的には,資本は人格ではありません」という俺の表現はマルクス理論と根本
的に対立するのでしょうか。
(1)への回答。マルクスの上記の表現は,ここで俺が問題にしているよう
な,交換過程で発生する(資本の場合にはやがて生産過程でも──いや生産過
程の中でこそ──発展する)ところの,独自な意味での人格化(すなわち,人
格の物象化の必然的な帰結ではあるが,人格の物象化とは区別され,やがては
対立するような人格化)を表現するものではありません。そうではなく,それ
は,資本という形態においては生産手段が労働者を搾取するものとして人格的
(=自己的・主体的・能動的)に振る舞っているということ(=主体化)を表
現するものです。従って,人格の物象化と物象の人格化との区別という枠組み
においては,それは──“人格化”とは言っても──明らかに物象化の方をを
表現するものです。但し,そもそも物象化するということは,必然的に,その
後で,人格化するということにならざるを得ないから,その限りでは,それは
物象化の観点から──われわれが住んでいる現代的な社会での唯一の現実的な
主体である物象の観点から──物象化と人格化とを統一する表現であると言っ
ていいでしょう。つまり,資本は,正に生産手段etcの人格化であるからこ
そ,資本家という人格的媒介を自己の実現形態として措定せざるを得ないわけ
です。
(2)への回答。違います。俺は注3の中では,人格の物象化と物象の人格化と
のこの対立において,人格という形式が形式化・形骸化して根拠(=自然人)
から自立化し,こうして資本がそれ自身で法的人格を獲得するという極めて独
自な現象──われわれが議論している人格発生時点には現れようがなかったよ
うな現象──について言及しているわけです。すなわち,(a)マルクスが“資
本は生産手段etcの人格化である”であると表現する場合には,それは“本来
的”な事態──まだ物象化(→物神崇拝→人格化)の構造が発生したばかり
で,破綻してはおらず,安定しているという意味で──をも破綻した事態をも
含み得るわけです。これに対して,(b)法人化現象において資本が直接的に法
的人格を獲得するのは,明らかに,ただ破綻した事態──物象が自己の人格的
媒介を否定してしい,物象化が人格化の枠を打ち破ってしまったという意味で
──のみを含み得るのに過ぎません。
(3)への回答。対立しません。俺は物象化と人格化との統一という観点では
なく,物象化と人格化との対立という観点で,人格化を考察しているからで
す。この観点からは,資本が(生産手段の)人格化(=主体化)であるという
表現は却ってミスリーディングになります。但し,──(a)もしこのことさえ
正確に把握されるならば,“資本家=人格化”と“資本=人格化”という──
マルクス自身が用いている──二つの表現は容易に媒介可能になると,俺は考
えます。(b)また,統一であれ対立であれ,問題は“物象化→人格化”という
発生的な関連です。そして,正にこの関連において,“資本自身がそもそも人
格化(=主体化)である(=人格化としての資本)からこそ,やがて資本家と
いう人格(人格としての自然人)を現実的に措定し(=人格化としての資本
家)なければならない”という把握は極めて重要になります。(c)また,この
発生的関連において,資本が本質的に資本家であるということを考慮に入れる
と,“資本は資本家としては(対自的には)人格になるが,それ自体としては
(即自的には)本来的には人格ではない”というのがヨリ正確な表現でしょ
う。俺が「本来的には,資本は人格ではありません」と述べているのは,この
表現の省略形であるとお考えください。