本文


 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。例によって例のごとく,注の部
分が長くなってしまったので,この投稿では,末尾に注を一括して挿入しま
す。

0.序
1.神山さんと今井との間での教養的背景の相違
2.神山さんの人格概念とヘーゲルの人格概念との関連
3.今井の人格概念とヘーゲルの人格概念との相違
    3.0緒論
    3.1ヘーゲルの人格概念
    3.2今井の人格概念

0.序

 この投稿の目的は,ヘーゲル人格概念に俺の人格概念を再び対置するという
ことにあります。ですから,この投稿は神山さんの投稿に対するコメントでは
ありません。ですが,ヘーゲル人格概念の批判に必要な限りで,神山さんの投
稿にも触れることになるでしょう。
 なお,これまでに述べてきたように,俺の場合には,交換過程で発生する法
的人格と労働過程で発生する類的本質との対立は,交換過程で発生する(そし
て資本の人格化と労働の人格化との場合には生産過程の中でこそ発展する)物
象の人格化(法的人格はその一契機──抽象的・形式的契機──であるのに過
ぎない)と類的本質との対立の一場面であるのに過ぎません。けれども,この
投稿では専らヘーゲルの“人格≡法的人格”(“人格とは法的人格のことでし
かない”)という人格概念に俺自身の人格概念を対置するということだけが重
要です。ですから,物象化するべき人格と物象の人格化としての人格との対立
という大きな問題については,これを捨象します。

1.神山さんと今井との間での教養的背景の相違

 正直に言うと,俺と神山さんとの間では,思想史的教養について相当のギャ
ップがあります(解りやすく言うと,俺はマルクスしか知りません。また,日
本にも人格論で本を書いているマルクス主義者が何人かいるようですが,俺は
その中のただの一冊たりとてそれを読んでいません)。このギャップが問題意
識の相違を齎しているようなので,ここで教養的背景の対立軸を提示しておき
ましょう。
 神山さんの教養的背景:ヘーゲル人格論を批判的に継承し,現代的に(現代
的な問題意識で)復権させよう。
 今井の教養的背景:ハッキリ言って,ヘーゲルは読んでいない。だから,ヘ
ーゲル人格論というのは全く知らない(マルクスにもよく解らない点がある
が,これは読んでもよく解らなかったのだ)。取り敢えず,現状分析におい
て,は人格の物象化と物象の人格化という対立軸にしがみつこう。そして,未
来展望においては,資本の社会に対して自由な個体性としての人格の社会を対
置してみよう。しがみついてみると,どうもヘーゲルの人格概念は絶対に拒否
しなければならないようだぞ。

2.神山さんの人格概念とヘーゲルの人格概念との関連

 もしこのような教養的背景の相違──そしてそれに基づく理論継承上の問題
意識の相違──が前提されるならば,神山さんの人格概念も(俺にとって)か
なり明瞭になるように思われるのです。そこで,これらの相違を前提にして,
神山さんの人格概念を再解釈し,それを通じて神山さんの人格概念とヘーゲル
人格概念との関連性を確認しておきましょう。この再解釈,この確認は俺がヘ
ーゲルの人格概念を攻撃しなければならないということを立証するためのそれ
らであり,従って,次の「3.今井の人格概念とヘーゲルの人格概念との相違」
への移行の媒介項になっています。ですから,ここでは,神山さんの全理論に
触れるのでは決してなく,あくまでもただ神山さんがヘーゲルから継承した人
格概念だけに触れることにします。
 そこで先ず,言い訳から始めましょう。この言い訳は俺の頭がいかに悪いの
かということを立証するのとともに,ヘーゲルの批判的継承という背景が神山
さんの人格概念をわれわれが理解する際に非常に重要であるということを立証
するはずです。
 さて,“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”(1999/09/05 
19:17)の中で,神山さんは,先ず,相互的承認する以前の(つまり相互的承
認の主体としての)商品所持者について,──

>人格1)は、すでにアトムとしての人格である。

と述べています(なお,「人格1)」とは──相互的承認する以前の──商品
所持者のことです)。次に,物象化するべき人格については,──

>「物象を措定する人格」とは、労働において自己を実現できない労働
>の人格性のことである。自己否定的に、自己実現する人格のことである。

と述べています。
 既に見たように,愚かにもこの箇所だけに目を奪われて,
“[ism-study.52] Re^2: Questions About "Person"”(1999/09/05 22:22)
の中で俺は,──

>ちょっと神山さんの見解が変更さ
>れたとしか俺には思えない

と失言してしまったのでした。
 「神山さんの見解」とは,──言うまでもありません──,人格は交換過程
での相互的承認によって措定される(発生する)〔その系論として導出される
のは,人格は生産過程では発生しないということです〕;従って,交換過程で
承認する主体は人格ではない;従ってまた,類的本質も商品所持者もそれ自身
としては(相互的承認によって法的人格になる以前には)人格ではない〔その
系論として導出されるのは,物象化するべき人格(俺の場合にはこれは類的本
質です)も──もし仮に物象化が相互的承認に先行する(もちろん俺の場合に
は先行するわけです)とすれば──人格ではないということです〕──,こう
いう議論のことです[*1]。
 ところが,よくよく読んでみると,この“[ism-study.51] Versachlichung 
der Personen”の中では,神山さんは,──

>今までの議論を私
>なりに調整したつもりです。

と強調しています。更にまた,この点について,“[ism-study.54] 
Re: Re^2: Questions About "Person"”(1999/09/06 16:59)の中で,神山さ
んは,──

>[ism-study.51] の私の新しい投稿は、以前の私の投稿[3][50]を下
>敷きにしてます。私の結論みたいなもの、骨格の簡潔な要約です。

と補足しています。だから,少なくとも神山さんに即しては,神山さんの見解
が変更されたはずがないということになります。
 さて,(a)神山さんは,もし理論が正しいならば,用語の選択はどうでもい
いと考えています[*2]。そして,(b)次の二点で神山さんはヘーゲルの人格概
念を受容しているわけです[*3]。──
(1)人格は抽象的普遍である。
(2)承認が人格の実体である。
そう解釈すると,「今までの議論」を変更したのではなく,これを保持したま
ま,但し,用語の選択という(神山さんにとって)どうでもいい問題で争うの
を避けるために,どう「調整」してもどうでもいい用語を今井風に「調整」し
たのだということになります。これによって,神山さんは「今までの議論」を
保持したまま,今井が問題にしている点(類的本質が物象化するべき人格であ
るという点,そして商品所持者が交換過程に現れた瞬間に物象の人格化として
の人格であるという点)もご自身の「今までの議論」──人格≡法的人格──
に包摂しようとしているわけです。──神山さんが「今までの議論」を放棄し
ていない以上,このような解釈以外にはあり得ないということに,ようやく俺
の悪い頭も気付いたのです。自分の解釈力のなさを棚に上げて言うと,今井が
理解することができるような説明をしようと神山さんが配慮してくださるあま
り,却って,俺の頭が混乱してしまったのでした。とにかく,ヘーゲル人格概
念の批判的受容という観点から見ると,確かに神山さんの主張は首尾一貫した
ものとして現れます。すなわち,ヘーゲル流の“人格≡法的人格”という人格
概念の一貫性です。
 つまり,敷衍して言うと,こういうことでしょう。──今井のように人格概
念を拡張するのは今井の勝手であるし,このような(今井によって)拡張され
た人格概念においては確かに類的本質も交換過程に登場したばかりの商品所持
者も人格だということになってしまう。しかし,厳密な意味での人格,本来的
な人格,真の人格[*4]は法的人格なのである。だから,本来的には,厳密に
は,真実態においては,(a)人格は具体的普遍ではなく,抽象的普遍である。
(b)相互的承認(=関係)の方が実体であって,これに対して人格の方は,承
認関係のアンサンブル,この実体の形態──この実体によって措定された形
態,仮面,ペルソナ──である[*5]。(c)つまり人格は法的人格,抽象的人
格,(通常の言い方では)“近代的人格”,“疎外された自己意識”以外には
あり得ない(人格≡法的人格)。ここで,その他の雑多な,人格という用語で
呼ばれているもの(例えば,今井によって人格と呼ばれているもの)も,以下
の(d),(e)のような仕方で法的人格に包摂され得る。(d)歴史的なシステムに
即しては,ヘーゲルが言う「人倫性」の世界(マルクスが言う資本主義的生産
に先行する歴史的諸形態,人格的依存の状態)では厳密な意味では人格はあり
得ない[*6]し,共産主義社会でも厳密な意味では人格はあり得ない[*7]。但
し,このような真ではない人格,虚偽の人格も,もし真の人格である法的人格
という基準が把握されていさえすれば,用語の拡張によっていかようにも包摂
され得る。(e)資本主義的なシステムに即しては,今井のように様々な主体に
人格という用語を割り当てることができるのも,“人格≡法的人格”という厳
密な基準があるからである。もし厳密な意味での人格,本来的な人格,真の人
格である法的人格が正確に把握されていさえすれば,類的本質だの商品所持者
だのに人格という用語を割り当てる今井の議論もこの基準によっていかように
も包摂され得る。(f)理論に即しては,資本主義社会での人格現象を解明する
ことができるようになり,また変革主体として人格を設定することができるよ
うになるのも,厳密な意味では,本来的な意味では,真実態では“人格≡法的
人格”だからである。

3.今井の人格概念とヘーゲルの人格概念との相違

3.0緒論

 以上のように,ヘーゲル人格理論の批判的継承とその現代的復権という観点
から見ると,神山さんの人格概念がかなり明確になるように思われます。そこ
で,ヘーゲル人格概念(として神山さんが継承している部分)に焦点を絞っ
て,俺の人格概念との対立点を強調しておきましょう。
 とは言っても,俺には『法哲学』という本を一頁も読んだことがありません
(マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』は読みましたが)。一応,“東京ヘーゲ
ル研究会”というところで,『精神現象学』を読んでいるのですが,正直に言
うと,いつも寝ていて,たまに起きていてもあまりにも難解で,一度も解った
ためしがありません。だから,ヘーゲル人格論の全体像なんてこれっぽっちも
知りません(なにしろあのヘーゲルが展開しているのですから,学ぶべき点は
大いにあるのに違いありません)。ですが,『法哲学』,『精神現象学』から
の神山さんによる肯定的引用,およびマルクスによる否定的要約のおかげで,
少なくともヘーゲルの人格概念だけはこの上もなく明快・明確になっていると
思います。
 以下では,第一に資本主義社会での発生的関連における人格について,第二
に共産主義社会での人格について,ヘーゲルの人格概念と俺の人格概念との違
いを述べておきます。その際に,──(a)本当は資本主義社会の実践的変革に
おける人格の役割の対比を明示しておきたいのですが,さすがにこれは人格概
念の比較だけでは無理で(ま,概念さえ解れば,想像はつきますが),ヘーゲ
ルの人格論の全体像を探る必要があります。てなわけで,実践的変革における
人格の役割の対比については,これを省略します。(b)共産主義社会について
は,本当はヘーゲルの絶対精神の検討が必要なのでしょうが,取り敢えずヘー
ゲルの人格概念から系論として導出され得る範囲内で,両者の人格概念を対比
しておきます。(c)資本主義社会に先行する共同体(ヘーゲルの人倫性の世
界)での人格についても,人格概念の対比が可能です(要するに,ヘーゲルの
場合には人倫性では人格なんてないのに対して,俺の場合には資本主義社会に
先行する共同体,つまり人格的依存の状態でも──現代的人格の認識,類的本
質と法的人格とに引き裂かれた人格の認識を前提した上で反省してみると──
なんとか人格を見付けることができます)。けれども,余り実践的な意義がな
いから,これを省略します。

3.1ヘーゲルの人格概念

3.1.1資本主義社会での人格について
 ヘーゲルにとって“人格は抽象的普遍である(sein)”ということが問題に
なります。注意しなければならないのは,ヘーゲルにとって“人格は抽象的普
遍として現象する(現れる=erscheinen)”わけではないということです。
「人格」と「抽象的普遍」とはist(=sein)で繋辞される(繋げられる)べ
きものなのです。もちろん,“抽象的普遍である”ということは“具体的普遍
ではない”ということです。
 そりゃそうでしょう。マルクスが否定的に要約した部分を読む限りでは,ヘ
ーゲルは,“人格は私的所有者(土地に対する私的所有者としての私的所有者
一般)である”と言っているのですから。また,『精神現象学』を読む限りで
は,ヘーゲルは,“人格は法的人格である”と言っているのですから。こりゃ
まぁ,社会的生産の具体的内容が捨象されているだけではなく,物象の人格化
としてなんとかもっている具体性さえも捨象されている無内容な主体──誰で
も抽象的に(私的所有者として)承認し合いさえすれば人格だという意味で抽
象的・形式的な人格──でしかありまへん。商品の人格化としては,それでも
なお,かろうじてなんとか保っていたリンネルの顔,上着の顔,棒砂糖の顔,
鉄の顔さえも脱ぎ捨ててしまったようなノッペラボーの仮面;資本家も労働者
も土地所有者も,あるいは売り手も買い手も私的所有者としては全く無区別で
あるような私的所有者一般;承認の方が(関係の方が)実体であり,しかるに
人格の方はこの実体によって措定された単なる形態であるのに過ぎないような
法的人格──,こりゃまぁ,確かに抽象的普遍でしかありまへん。ヘーゲルに
とっては,人格は,所詮,社会的関係(ヘーゲルの場合には自己意識の関係で
ある精神)のアンサンブル,個別的な自己意識が対他的に振る舞う時に被る仮
面(ペルソナ)でしかないのでしょう。ヘーゲルにとっては,抽象的人格(法
的人格)だけが人格なのでしょう。ヘーゲルにとっては,具体的普遍としての
地位を奪われたこのような主体,抽象的普遍に留まり続けるこのような主体こ
そが人格なのでしょう。──「そこで,或る個人を人格と呼ぶのは軽蔑の表現
である」(『精神現象学』)。
3.1.2共産主義社会での人格について
 共産主義社会を想定して見ましょう。厳密な意味での人格,本来的な人格,
つまり法的人格の成立の根拠は精神(=本源的な精神,つまりギリシャ的共同
体)の喪失でした。ですから,精神を回復するや否や,もはや自己意識は抽象
的普遍に留まってはいられないはずです。だから,ヘーゲルの場合には,共産
主義社会では人格は,その抽象性の故に批判され,その形式性の故に批判さ
れ,具体的普遍に道を譲り,それ自身は消滅する(没落して根拠に帰還する
(zugrundegehen)はずです。
 と,まぁ,俺にはヘーゲルのことはよく解りませんが,『精神現象学』にお
いては,法的状態の前でも後でも人格性という用語や仮面(ペルソナ)という
用語やは出てくるようですが,絶対知では人格という用語は全く使用されてい
ないようです。これは何も絶対知が短い章だからではありません。もし絶対知
が(以下に述べる俺の場合ように)“人格性の回復”であれば,どれほど短い
章であっても人格をキーワードとして使用するでしょう。
 もちろん,ヘーゲル解釈は神山さんを筆頭にする詳しい方々に譲りましょう
(逃避モード)。けれども,人格概念だけを検討するだけでも,次のことだけ
は確実です。──未来社会で,自己意識が抽象的普遍として「軽蔑」されてい
るはずがないでしょう;精神喪失(没精神=没共同性)であり得るはずがない
でしょう。つまり,厳密な意味での人格,本来的な人格,真の人格,一言で言
って法的人格は没落せざるを得ないでしょう。──これだけは確実です。

3.2今井の人格概念

3.2.1資本主義社会での人格について[*8]
 確かに,資本主義社会では資本こそが具体的普遍として現れています
(erscheinen)。これに対して,人格の方は,結局のところ法的人格として抽
象化されて,抽象的普遍として現れています(erscheinen)。ですが,だから
と言って,“人格は抽象的普遍である(sein)”と言ってしまっていいわけで
はありません。資本が具体的普遍として現れている(erscheinen)のは,資本
が人格の物象化として具体的普遍の疎外態だからです。つまり,具体的普遍で
ある(sein)人格が具体的普遍としての自己を資本に疎外し,これに対して自
己自身についてはこれを抽象的普遍として実現させているからです。そうでな
ければ,どうして資本が具体的普遍として現れ得るのでしょうか。
 ここで,類的本質なんて,所詮は抽象的普遍だと考える方もいらっしゃるか
もしれません。そうではないのです。確かに,フォイエルバッハ的な人間的本
質は頭の中で思弁的に創り出された抽象的普遍でしょう。しかし,マルクス的
な類的本質はフォイエルバッハ的な人間的本質とは全く異なるのです。類的本
質は労働という(具体的な社会的欲求を満たすあれやこれやの有用物を産出す
る)具体的な行為によって具体的に,実践的に,実践の中で,絶えず毎日毎日
(自己疎外的・自己否定的にではあっても)産出されるような,そして社会的
生産の生き生きとした具体的内容を自己の中に(自己否定的・自己疎外的にで
はあっても)包摂しているような,更にまた自己が属している具体的生産関係
を商品・貨幣・資本という(自己否定的・自己疎外的ではあっても)具体的な
姿態で形成しているような,そのような具体的普遍なのです。正に,物象
(=資本)のリアリティ,物象(=資本)の具体性こそが,そっくりそのまま
類的本質のリアリティ,類的本質の具体性を確証しているのです。商品・貨
幣・資本が具体的普遍として現れる(erscheinen)のは,物が具体的普遍であ
るからでは決してなく,類的本質が具体的普遍である(sein)からなのです。
そして,このように具体的普遍であり(sein)ながら,具体的な普遍としての
自己を物象に疎外し,しかるに自己自身は抽象的普遍として自己を実証する
──抽象的普遍として現れる(erscheinen)──ような類的本質こそは,人格
の実体,一言で言って人格そのものなのです。そこで,人格は資本主義社会に
おいては,法的人格(抽象的普遍,ペルソナ,アンサンブル)として現れては
いるが,それでもなおやはり矛盾の統一であるから,人格は(仮面として)軽
蔑の表現であるのとともに尊厳ある社会形成主体の表現でもあります。──
“貴様の下半身に人格はない”。
3.2.2共産主義社会での人格について
 共産主義社会では,自由な個体性を持つ人格以外に具体的普遍はあり得ませ
ん。共産主義社会では,人格は,資本主義社会では資本に疎外していた具体的
普遍を取り戻すのです。共産主義社会では,人格はもはや抽象的普遍に留まり
続け得ないのです。
 確かに,共産主義では,類的本質は直接的に(つまり労働そのものにおい
て)承認されるのだから,“法的”人格──法的人格という仮面,抽象的普遍
としての主体,承認という実体の形態,私的所有者──は消えてなくなりま
す。しかし,人格が消えてなくなるわけでは決してないのです。全く逆です。
人格は共産主義社会においてこそ真の主体になるのです。人格性の回復は法的
人格の消滅とイコールなのです。
 ここで,“共産主義社会では直接的に(社会的労働の場面で)承認されてい
る以上,人格はますますもって(資本主義社会以上に)抽象的普遍,ペルソ
ナ,アンサンブル,法的人格になるんじゃないの”と考える方がいらっしゃる
かもしれません。そうではありません。実体と形態とが,本質と実存とが分離
し,対立し,矛盾しているからこそ人格は法的人格として,抽象的普遍として
現れるのです。類的本質が直接的に承認されてしまったら──本質と実存とが
一致してしまったら──,もはや人格は抽象的普遍としては現れませんし,わ
ざわざ“法的”なんて形容する必要は全くありません(一言で“人格”と言え
ば済むことです)。一言で言って,共産主義では──そもそも人格の物象化の
消滅によって物象の人格化が消滅するのだからこれは当然のことですが──,
法的人格は消滅するわけです。類的本質は抽象的普遍なんていう──法的人格
なんていう──仮面をかぶらずに,直接的に承認されているわけです。生き生
きとした具体的個体性がそっくりそのまま(仮面をかぶらずに)人格的自由を
享受しているわけです(自由な個体性)。自己の中に関係を包含しているので
はあるが,同じ自己が他ならないこの関係を直接的・自覚的に措定しているの
です。
 あるいは,“共産主義社会でも所有はなくならない以上,所有とワンセット
の法的人格もなくならないんじゃないの”と考える方がいらっしゃるかもしれ
ません。違います。法的人格とワンセットであるのは所有一般ではなく,私的
所有なのです。共産主義社会では,(所有が消滅するわけではありませんが)
私的所有が消滅するのと同時に,法的人格も消滅するのです。
 あるいはまた,“そもそも人格は承認されなければならない以上,交換過程
で承認されても労働過程で承認されても承認されているという意味では法的で
あるから,法的人格は消滅しないのではないか”と考える方がいらっしゃるか
もしれません。違います。ここで,俺と神山さんとは交換過程で承認の結果と
して措定される法的人格,交換過程での承認の形態としての法的人格に言及し
ているのです。ヘーゲルの場合には,ヘーゲル自身がどのように考えていたの
かは俺にはよく解りません。実際にまた,資本主義社会でも様々な場面で相互
的承認が行われます。家庭内でも相互的承認が行われるかもしれません。労働
組合内でも相互的承認が行われるかもしれません。しかし,(a)資本主義社会
の発生的関連において,システム的に相互的承認が必然的なものとして現れる
場面,そこで相互的承認が行われなければシステムが発生し得ないような場面
は交換過程にしかありません。(b)例えば,家庭内での承認は真に普遍的でし
ょうか。そうではないでしょう。その措定が社会的に妥当する法的人格,抽象
的普遍でなければならないような相互的承認も交換過程での相互的承認でしか
あり得ません。──この二点から,ヘーゲルの相互的承認も(いろいろな場面
で用いられているのですが)法的人格を措定するような相互的承認である限り
では,われわれは交換過程での相互的承認を表象せざるを得ません。こういう
わけで,社会的労働過程で直接的に承認し合っているということは法的人格と
いう形態──そしてこれ以外に法的人格はあり得ません──の消滅を意味する
わけです。
 これに対して,類的本質あるいは労働する人格の方は本質と実存とが分離し
ていなくても有意味です。何故ならば,類的本質こそは人格の本質だからで
す。類的本質こそは,自己と対立する現象形態が消え去った後になお残ってい
る本質なのです。今では,この本質と対立するような実存[*9]が消え去って,
本質と実存とが一致したけの話です。今では,自己の形態的契機(=承認)を
自己自身の中に取り戻しただけの話です。それは,固有の意味での物象(人格
の物象化としての物象)が消えてなくなっても──資本が消えてなくなっても
──,人格が依然として有意味であるのと全く同様です。無意味になったの
は,物象の人格化としての人格(そしてそれを通じて法的人格)という自己疎
外的形態の方であって,これによって初めて人格は具体的普遍として実現する
ことができるのです。
 共産主義社会では,類的本質はもはや現実性において否定される必要はあり
ません。類的本質がそのまま実現されているわけです。そして,類的本質こそ
が人格の本質なのですから,この事態は人格の真の現実化を意味しているので
す。こうして,共産主義社会では,法的人格は消滅し,これに対して人格は回
復されます。

注

[*1]神山さんは“[ism-study.26] Re:”(1999/08/04 
20:42)の中では──

>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私です

と述べています。また,“[ism-study.34] Re: Re^2: 
A Confirmation About Person”(1999/08/05 23:29)
の中では,──

>この自己を自己として、この物を自己の物として、行動する
>のは、「人間」の契機であり、もちろんそれは、対他的関係を予定してお
>り、完結しないわけですが、承認に相関した規定が「人格」である、こう
>私は、かんがえてみているわけです。

と述べています。また,“[ism-study.34] Re: Re^2: 
A Confirmation About Person”(1999/08/05 23:29)
の中では,──

>相互承認以前の、「交換過程にeingehen」する、孤立的な人間の「事実
>的」な振舞い、ここに物象の人格化、自由な人格性がある。これが(私の
>読込んだ)今井説。承認以前の事実上の人間の恣意(=「自由」)を、法
>的人格に先立つ人格とする。
> これに対して、神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。
> こんなかんじです。

同様にまた,──

>ここでは、今井さんとの対比からして、個別の意識性に対して、それを
>媒介する、産出された対他的な社会的意思を介した規定を、人格とする、
>というように限定、強調しておくのが、有益な整理になるでしょう。

と述べています。また,“[ism-study.50] Re: 
Questions About "Person"”(1999/08/21 18:28)の中
では,──

>人間Menschに対して、社会的な反省規定におけるその規定性、承認性を人格Personとす
>ると、私は強調しました

と述べています。

[*2]“[ism-study.50] Re: Questions About 
"Person"”(1999/08/21 18:28)の中で神山さんは次の
ように述べています。──

>所持者を人格化と呼ぼうと、所有者を人格化と呼ぼうと、それも内容に即し
>て理解されればいいことのようにおもわれます。

同様にまた,──

>私は、承認の能力(人間の社会的能力)を人格や人格的本質・社会的性質と呼ぼうと、
>承認された自己規定を人格や実現された人格性と呼ぼうと、事態は変らないと考えます。

[*3]“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”
(1999/09/05 19:17)の中で神山さんは,──

>0.人格は、マルクスの骨格に位置する対象である。
> ヘーゲル所有論を引継いで、マルクスの中心テーマである。

という項目の中で,『精神現象学』の次のような箇所を
引用しています。──

>「この承認されてあることが自我の実体性であるが、この実体性は抽象的な
>普遍である」(778)。

“マルクスはヘーゲル所有論を引き継いで自己の人格論
を構築した”という項目でヘーゲルからの引用があるの
ですから,当然に,この引用は肯定的な引用(神山さん
の自説を補強するための引用)なのでしょう。
 次に,同じ項目の中で,神山さんご自身,次のように
述べています。──

>人格の実体は、承認である。

これはもう,神山さんご自身が書いていることですか
ら,これが神山さんご自身の見解であるということに
は,解釈の余地はありません。
 どちらについても,「法的人格」という表現ではな
く,「人格」という表現が用いられているということ
にご注目ください。神山さん,ヘーゲルにとっては,
“人格≡法的人格”ですから,──「法的人格」とい
う表現を用いても構わないのと同様に──「人格」と
いう表現を用いても構わないわけなのです。これに対
して,俺の場合には,抽象的普遍であり,その実体が
承認であるのは「法的人格」──という人格の転倒的
現象形態──であって,「人格」そのもののことでは
ありません。だから,俺には,上記のような命題にお
いて「人格」という表現を,なんの限定もなしに用い
るということはできません。

[*4]“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”
(1999/09/05 19:17)の中で,神山さんは,──

>2)は人格の「定在」、承認された人格、現
>実態としての人格、優れた意味における人格としての人格である。

と述べています(「2)」とは法的人格のことです)。
本文中で法的人格が神山さんにとって「厳密な意味での
人格,本来的な人格,真の人格」であると俺が述べてい
るのは,神山さんが法的人格のことを「優れた意味にお
ける人格」と呼んでいるということを念頭に置いていま
す。ここで,「優れた意味における」という部分の解釈
がもちろん問題になります。例えば,資本一般としての
産業資本に対して利子生み資本を「優れた意味での」資
本と言ったりしますが,このような用例の機械的な当て
嵌めでは,神山さんの主張を解釈することはできない
(と言うのも,神山さんは人格の発生に言及しているの
ですから)から,上記のように解釈しました。つまり,
神山さんにとっては,そもそも人格というものは承認を
以て自己の実体にするものであるから,「厳密な意味で
の人格,本来的な人格,真の人格」は法的人格以外にあ
り得ないのだということです。
 なお,上記引用文はやや解りにくい部分なのです。と
は言っても,上記の解釈的な手続きを踏む限り,法的人
格が「優れた意味における人格」であるということには
解釈上,なんの問題もありません。もちろん,神山さん
にとってと同様に,ヘーゲルにとっても法的人格こそは
「優れた意味における人格」であるのに違いありませ
ん。
 解釈上の問題は,法的人格が「人格の「定在」、承認
された人格、現実態としての人格」であるという部分の
方です。法的人格が「人格の「定在」」であるという場
合の「人格」が何であるのかということが問題になりま
す。もしこの場合の「人格」が法的人格──「優れた意
味における人格」──であるならば,“法的人格は法的
人格の定在である”ということになってしまい,何がな
んだかよく解りません。そして,「現実態としての人
格」と言ってしまうと,「人格」が「現実態としての人
格」と“可能態としての人格”とに分かれてしまい,あ
るいはまた,「承認された人格」と言ってしまうと,こ
れと同様に,「人格」が「承認された人格」と“承認さ
れていない人格”とに分かれてしまい,いずれにせよ,
両者を統括する「人格」とは一体なんのことなのか,そ
して対立項の他方を表す“可能態における人格”あるい
は“承認されていない人格”とは一体なんのことなの
か,さっぱり解らなくなります。更に,「現実態として
の人格」,「承認された人格」という表現だけを考えて
みても,もしこれらの形容が同義的形容ではなく限定的
形容であり,しかもそこでの人格が法的人格──「優れ
た意味における人格」──であるならば,法的人格は
“現実態としての{現実態としての[現実態としての
(現実態としての……)]}”となってしまい,また法
的人格は承認された{承認された[承認された(承認さ
れた……)]}となってしまい,いつまでたってもキリ
がありません。そこで,この場合の「人格」とは法的人
格のことではなく,つまり「優れた意味における人格」
のことではなく,従って厳密には人格のことではないと
解釈されなければなりません。つまり,神山さんにとっ
てもヘーゲルにとっても人格は抽象的普遍であり,人格
の実体は承認であるはずですから,この場合の「人格」
は人格ではないはずなのです。神山さんの上記命題は,
──厳密には,本来的には,法的人格は「人格の「定
在」」ではなく“人格以外のなにものか”の定在なので
あり,「現実態としての人格」ではなく,現実態として
の“人格以外のなにものか”なのであり,「承認された
人格」ではなく承認された“人格以外のなにものか”な
のである;但し,ひとたびこの点が明確になりさえすれ
ば,“人格以外のなにものか”に「人格」という用語を
割り当ててもいいのだ──,こう解釈するべきなのでし
ょう。
 こうして,神山さんの上記引用文の唯一の可能な解釈
は次のようなことになります。──厳密に言うと,本来
的には,真実態では,法的人格は「優れた意味における
人格」であるが,「人格の「定在」、承認された人格、
現実態としての人格」ではない。
 これに対して,俺にとっては,神山さんとは全く逆
に,法的人格は,確かに「人格の「定在」、承認された
人格、現実態としての人格」ではあるが,しかし「優れ
た意味における人格」ではないわけです。これで,両者
の人格概念の対立性がクリアになるのではないでしょう
か。

[*5]但し,ヘーゲルとは異なって,神山さんは人格は単
なるアンサンブル,単なる仮面ではないと主張するので
す。これが神山さんの主張の中で最も解りにくい部分な
のです(ヘーゲルを批判的に継承する際の“批判的”な
部分の難しさなのかもしれません)。と言うのも,既に
述べたように,ひとたび承認によって(承認関係として
の交換関係によって)形成された以上,法的人格は,
──もちろん自由な主体なのですが──,たとえ新たな
(二度目以降の)交換で承認を行おうとも,あるいは株
主として株券を買おうとも,あるいは政治的主体(有権
者)として投票を行おうとも,つまりどれほど自由な主
体として社会形成しようとも,いずれにせよ,結局のと
ころ,交換関係のアンサンブル,自由・平等なものとし
て対他的に妥当するための仮面であるのに過ぎないから
です。恐らく神山さんの主張では,人格はアンサンブル
であるということ,仮面であるということを乗り越えよ
うと努力するのでしょう(尤も,乗り越えてしまった
ら,既に神山さん流の人格は消え去ってしまいます
が)。この点は論証がないから,ちょっと不明です。け
れども,結局のところ,神山さんにとっては,本来的に
は,厳密には,真実態では,人格は──たとえ仮に単な
るアンサンブル,単なる仮面ではないとしても──,ア
ンサンブル,仮面以外のものではあり得ません。
 正直に言うと,もし神山さんが,“人格なんて単なる
アンサンブル,単なる仮面に決まってるだろう。社会関
係の単なるアンサンブルだからこそ,現実的な主体なん
じゃないか。社会によって形成されているからこそ,現
実性において社会を形成する自由な主体になるんじゃな
いか。単なるアンサンブルだからこそ,変革主体になり
得るんじゃないか。関係の外部にあるヤツが変革主体に
なれるかってーの。単なるアンサンブルだからこそ,単
なるアンサンブルである自分に苦しむんじゃないか。資
本主義社会にはいろんなやつがいるが,そんなのは資本
のシステムに即しては偶然的な人格,消滅する人格であ
って,必然的な人格,持続する人格は単なるアンサンブ
ルでしかないだろう。単なる仮面だからこそ,脱ぎ捨て
ることができるんじゃないか。大体『資本論』第1巻初
版後書きを見てみろ,『資本論』が対象にしている必然
的な人格は類的本質じゃなくて,諸関係の単なる被造物
だろう。マルクスが,類的本質を研究しますなんて『資
本論』で言っているか? 諸関係の被造物ってことは社
会的諸関係のアンサンブルってことだろう。単なる被造
物じゃないような人格は偶然的な人格だろう”──と主
張するのであれば,俺にもよく解るのです。そして,も
し上の文のコーテーションマークで囲まれた部分の中で
「人格」と書かれている箇所をそっくりそのまま「物象
の人格化としての人格」に置換すれば,それは俺の主張
とかなり近くなります。何千回,何万回自由に関係を形
成してもやはり単なるアンサンブルであるような自己こ
そが,関係を形成しながらなお関係によって形成されて
しまっているという自覚を持つことができ,変革主体と
しての自覚を持つことができるのです。
 既に述べたように,俺は変革主体形成論においては,
類的本質の把握が決定的に重要であると考えています。
それにも拘わらず,いやそれだからこそ,変革主体とし
ての法的人格については,法的人格が単なるアンサンブ
ル,単なる仮面であるということの把握も決定的に重要
であると考えています。
 なお,法的人格が承認関係のアンサンブル,抽象的普
遍,私的所有者,仮面だという点では,俺とヘーゲルと
の間にはなんの違いもありません。もし仮に万が一“人
格≡法的人格”であるとしたら,なるほど,人格は抽象
的普遍,私的所有者,仮面であるということになってし
まうでしょう。人格概念に関する限りでは俺とヘーゲル
との間での唯一の違いは,“法的人格≡人格”(ヘーゲ
ル)であるのか,“法的人格”≡“完全に疎外された
(具体性を一切剥奪されているという点で)人格”(今
井)であるのかという点にあるのです。そして,俺にと
ってはこの対立は,資本主義社会の変革主体としての法
的人格を考察する上でも,共産主義社会の課題を人格性
の回復として定式化する上でも,水と油の決定的な対立
なのです。なお,ここで,“再建”ではなく「回復」と
いう用語を用いているのは,これまでの総ての歴史的社
会(厳密に言うと,生成しつつある社会)において,真
の人格的な社会なんてもんは実存しなかったからです。
ま,これは(ここでの議論では)どうでもいいことなの
ですが。

[*6]神山さんは,──

>Menschは、孤立化という規
>定において、すでに人格である。

と述べています。つまり,まだ孤立化していない状態で
は,人間は人格ではないのでしょう。従って,人格的依
存(資本主義的生産に先行する諸形態)においては,厳
密な意味での人格,本来的な人格,真の人格はなかった
ということでしょう。“人格≡法的人格”という定式を
継承している以上,当然のことですが,この点でも,神
山さんはヘーゲル人格概念を批判的に受容しているわけ
です。

[*7]共産主義については,神山さんの見解はちょっと不
明です。ひょっとすると,神山さんは,共産主義でも抽
象的普遍としての主体があると考えているのかもしれま
せん。もしそうであるならば,「共産主義社会でも厳密
な意味では人格はあり得ない」という部分については,
解釈の誤りとして,これを俺は取り消します。けれど
も,それならばそれで,共産主義で抽象的普遍として振
る舞っている主体とは一体にどういうものであるのか,
ちょっと俺には解釈不可能です。

[*8]ここでは,ヘーゲルとの対比のために,「である」
と「として現れる」とを区別します。俺自身,これまで
──内容上はこのような区別をしてきましたが──形式
上は必ずしもこのような区別をしてきたわけではありま
せん。また,今後も──内容上はこのような区別をし続
けるつもりですが──形式上は必ずしもこのような区別
をし続けるとは限りません。たとえ俺が“資本主義社会
では人格は法的人格である”(資本主義社会での人格=
法的人格)と言うとしても,それは“人格は法的人格の
ことでしかない”(人格≡法的人格)ということを意味
するものでは決してありません。

[*9]ここでは,本質と実存との闘争の解決という(『経
哲草稿』での)フレームワークを念頭において,「実
存」という名辞(用語)を用いています。ところで,
“[ism-study.56] Re: A survey of thecontroversy 
about "Person"”(1999/09/07 8:28)の中で,俺は,
──

>類的本質という本
>質,物象の人格化という実存形態,法的人格という現象形態

と述べています。まぁ,こういう特徴付けが可能なので
す(もちろん,現象形態は実存形態に含まれるわけで
す)が,今回の投稿では,「実存形態」と「現象形態」
とは区別されていません。と言うのも,今回の投稿で
は,“人格≡法的人格”というヘーゲルの人格概念を批
判するということが目的であって,商品所持者と法的人
格との区別が目的であるのではないからです(但し,物
象の人格化としての人格が法的人格だけではなく,商
品・貨幣・資本の人格化という区別された当事者行為を
し,やがては直接的生産過程の中で労働の人格化と資本
の人格化とが対立した振る舞いをするということは,普
遍的な──しかし抽象的な──法的人格の振る舞いが資
本家・労働者の具体的な──しかし特殊的な──振る舞
いによって否定されているということ,つまり物象によ
る法的人格の否定が現実的人格──物象の人格化として
の人格──のレベルでの人格の自己否定として現れてい
るということは,法的人格の──人格としての──本来
性・真理性・自立性の自己否定を確証する重大な契機で
あり,俺の人格論をヘーゲル人格論に対置するために
は,捨象され得ない契機であると言えるでしょう。けれ
ども,ここでは,あくまでも人格論の全体像の相違では
なく,それを齎すであろう人格概念の相違に俺は固執す
るわけです)。ここでは,いずれも「実存」に含まれて
いるのだとお考えください。また,他の箇所では,現象
形態という名辞のもとに実存形態と現象形態との両者が
含まれているところもあります。