本文


僕の自分の見解をまとめた図式は、ドイツ語を多用した上に、位置がずれてし
まっていて、全く意味不明です。訂正させていただきます。

        ┌…物象の人格化…┐
       物象の連関→経済的扮装 (資本主義における人格性)
      /       ↑            ↓          
                 
人間[*1]=人格  (物象への拝跪)   (形態規定)     “人格” 
      \       ↑              ↓        ↑
       単なる質料的媒介物[*2]となった「人間」―⇒―┘       

[*1]類的本質としての人間から「」を取りました。自己
還元の結果である質料としての「人間」から区別する
ためです。

[*2]誤解を招いてしまったようなので、今回、「質料と
しての」を「質料となった」に改めました。理由について
は後述。

このシェーマの主要パーツを左から右に順番に抜き出して簡単な解説をつけてみま
す。

〈人間=人格―物象の連関
        \単なる質料的媒介物としての「人間」〉
(人間は常に人格、しかし、資本主義社会では、類的本質を物象の連関として自
己から疎外するとともに、自己を単なる質料に還元。)

〈物象の連関→経済的扮装〉=物象の人格化
(物象が主体化することであり、「人間」自体の人格化ではありません)

〈質料としての「人間」→(物象への拝跪)→物象の人格(主体)化〉
    (「人間」は、単なる質料的媒介物=所持者)

〈経済的扮装→(形態規定)→質料となった「人間」
        “人格”←−−−−┘   〉=相互承認による法的人格の措提
 (「人間」たちは、人格化した物象を身に纏い、この扮装を互いの資格証明として
承認しあいます。)


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物象が人格化することと、「人間」が物象の人格化という形態を受け取ることとは、
相異なる二つの段階だと考えています。時間的な前後関係というより、物象の人格化
は、法的人格の措提の論理的な前提だと理解しています。

「人間」の自己疎外/自己還元は、「物象の人格化→法的人格の措提」によって、
「解決」されてもいます。「人間」は、自分の「人格性」を疎外させて、しかし、物
象に隷属しながら、主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御していると思
い込むという転倒的な形で、「人格性」を「取り戻し」ているのです。 もちろん、
「解決」も「取り戻し」も転倒的なものである以上、絶えずほころびが生じ彼らの思
い込みはそのつど裏切られます。

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次に、今井さんの質問のごく一部にお答えしておきます。(残りの質問への回答は別便
でお答えします。)

>・類的本質は承認されていようといまいと人格である(この点では今井説と同
> じであって,神山説とは違う。但し,類的本質を単なる質料として位置付け
>る点で,今井とは違う。後述)。
>…中略…
>──こういうことなのでしょうか?

今井さんが、僕の説明不足をおして、解釈してくださった4項目のすべてに回答しな
けれ
ばならないのですが、このメールでは、僕の図式の訂正に直接関連する最初の項目に
ついてのみ、とりあえずお答えします。

類的本質(人間)が人格であるというのはそのとおりです。この点は、今井さんと一致
していると考えます。ですが、「但し」以下については、説明不足から誤解を招いてし
ま
ったように思います。類的本質自体は、質料性と形態性をともに備えており、「単なる
質料」ではないと考えます。ただ、この社会での類的本質のあり方は、この2つの契機
を分離させた上で媒介的に統一するというあり方なので、分離した片方の契機(今回
の訂正で「人間」とした方)のみについて言えば、「単なる質料」であると考えたわけ
で
す。

「単なる」という言葉も、使い方として正しくなかったようにも思いますが、「絶対的
な素
材性」をいいたかったのではなく、類的本質としての人間は、その存立構造の全体とし
ては、質料的かつ形態的だが、「人間」の方は自分の形態性を外化させてしまって、
それ自体は質量的なものに一面化しているといいたかったのです。「自己還元」という
言葉もこの意味合いで使いました。「シェーマα」の左端の人間と、同じくその右下の
「人間」が同じように質量的でしかないなら、還元にはなりません。質料的かつ形態的
な人間が形態性を外化させて「人間」となることを「還元」と表現しました。