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 浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。浅川さん,お返事どうもありが
とうございます。
 “[ism-study.74] Correcting  my scheme”(2000/03/10 01:22)に対する
お返事を書いていたところ,新しく“[ism-study.75] RE:  Some Questions 
On Asakawa san's Schemes”(2000/03/14 14:12)が到着しました。この投稿
は直接的には前者に対する投稿として書かれたものですが,浅川さんの新しい
投稿を見て,俺が勘違いをしていた部分を削除し,またいくつか追加した上
で,投稿します。
 えーと,最初に訂正など。先ず最初に,──

>「シェーマα」の左端の人間と、同じくその右下の
>「人間」が同じように質量的でしかないなら、還元にはなりません。
(“[ism-study.74] Correcting  my scheme”)

なるほど,浅川説では人間──質料因と形相因との統一しての人間──と「人
間」(括弧付きの人間)──質料因に還元されたものとしての人間──とが実
は区別されていたのですね。これは気付きませんでした。これは俺の解釈の誤
りでした。
 次に,──

>「商品所持者」という規
>定性それ自体には、人格性は含まれないと思います。
([ism-study.75] RE:  Some Questions On Asakawa san's Schemes)

>僕の場合には、そのものとして捉えられた商品所持者は、人格ではない
(同上)

これについても,俺の解釈の誤りでした。
 また,「思い込」み云々に関する箇所についても,俺の解釈の誤りでした。
ただ,この点については,細かな部分でまだ疑問点が残っています。いずれ議
論になるでしょうが,今回はこの問題を捨象します。
 以下でも,いろいろと解釈の誤りがあるでしょうが,ご指摘いただければ幸
いです。

1. 浅川説の再確認

 かなりややこしいのですが,浅川説では,(i)人間,(ii)「人間」,(iii)人
格,(iv)“人格”,(v)資本主義における人格性というよく似た五つの用語が
用いられています。最初にこの五つの用語をそれぞれバラバラに解釈してみま
しょう。先ず,人間と人格とについては,──

>人間〔……〕=人格
(“[ism-study.74] Correcting  my scheme”)

という箇所から判断すると,同一のものであるということが明白です。次に,
「人間」については,──

>「人間」は、単なる質料的媒介物=所持者
(同上)

という箇所から判断すると,商品所持者のことであるようです。その次に,
“人格”については,──

>〈経済的扮装→(形態規定)→質料となった「人間」
>        “人格”←−−−−┘   〉=相互承認による法的人格の措提
(同上)

という箇所から判断すると,法的人格・私的所有者のことであるようです。最
後に,資本主義における人格性については,──

>        ┌…物象の人格化…┐
>       物象の連関→経済的扮装 (資本主義における人格性)
(同上)

という箇所から判断すると,経済的扮装のことであり,その措定が物象の人格
化であるようです。すなわち,浅川さんの用語法では,人間=人格であり,
“人格”=法的人格・私的所有者であり,「人間」=商品所持者であり,資本
主義における人格性=経済的扮装であるということになるようです。
 それでは,この五つの概念の連関について,浅川説を解釈してみましょう。

>この社会での類的本質のあり方は、この2つの契機
>を分離させた上で媒介的に統一するというあり方なので
(同上)

という箇所から判断すると,人間と人格と“人格”とはいずれも質料因と形相
因との統一であり,但し人間と人格との方は類的本質におけるその本源的統一
を,そして“人格”の方は商品生産の現実性におけるその「媒介的統一」
(?[*1])を表現するようです。これに対して,「人間」と資本主義における
人格性とは分裂の両項であって,「人間」は「還元」によって専ら質料因を代
表し,資本主義における人格性は「形態規定」によって専ら形相因を代表する
ようです。

[*1]統一形式そのものからみると,明らかにこの統一は
直接的統一(二項の無理やりの統一)です。従って,こ
こで浅川さんが「媒介的」と呼んでいるのは,“統一形
式が媒介的なのだ”ということではなく,“統一が一旦
分裂し,その後でこの分裂によって/を通じて
(vermittelst)統一が媒介されている(vermittelt)
のだ”ということを指していると解釈しておきます。

 以下では,この解釈に基づいて,議論を進めます。ここでは,三つの問題を
提出しますが,どれも質料因・形相因──浅川さんはこういう用語を用いてい
ませんが,「質料的」なものに対する「形態的」なものとは形相因と呼ばれて
いるもののことでしょう──の位置付けに関わっています。三つの問題と言っ
ても,事実上,同じ問題を扱っているわけですから,分けないで一気にお答え
いただいても構いません。

2. 人間の位置付け──人間と人格との間には区別性もあるのではないか

 先ず,人間の位置付け,あるいは人間と人格との同一性・区別性についての
疑問です。
 既に挙げたように,浅川さんは,一方では,──

>人間〔……〕=人格
(“[ism-study.74] Correcting  my scheme”)

あるいは,──

>人間は常に人格
(同上)

という図式を挙げていらっしゃいます。従って,ここでは,人間=人格という
定式は,“人間と人格との間には同一性と区別性との両側面があるが,ここで
は同一性の側面に着目するのだ”ということを意味するのではなく,“「人間
は常に人格」であるのだ”ということを意味すると──いわば,方程式ではな
く,恒等式(人間≡人格)を意味すると──解釈しておきます。
 他方では,──

>類的本質としての人間は、その存立構造の全体とし
>ては、質料的かつ形態的だが、「人間」の方は自分の形態性を外化させてしまって、
>それ自体は質量的なものに一面化しているといいたかったのです。
(同上)

という図式を挙げています。
 類的本質が質料的かつ形態的であるということには全く異存がありません。
これに対して,人間が質料的かつ形態的であるというのがよく解りません。こ
の場合に,「形態的」であるというのはどういうことなのでしょうか。定義に
応じては,“人間も質料的かつ形態的である”と言ってもいいと思いますが,
その場合の“質料的かつ形態的である”という限定は“人格が質料的かつ形態
的である”という場合のそれとは違うように思われるのです。
 既に述べたように,今井説では,類的本質は人間の人間的なあり方,人間の
媒介的なあり方,人間の本質的なあり方であって,類的本質≡人間ではありま
せん(従ってまた人間≡人格ではありません)。類的本質は常に人間ですが,
人間が常に類的本質であるとは限りません。今井説では,人間は類的本質に対
しては質料的であり,これに対して類的本質は人間に対しては形態的です。浅
川さんの図式を借りて言うと,「類的本質としての人間」(=人格)は質料的
かつ形態的ですが,「人間は常に人格」であるわけではありません。
 では,浅川さんが,何故に質料因の極の方を「人間」(括弧付きではあって
も)と呼んでいるのか,形相因の極の方を「物象の人格化」とか,「資本主義
における人格性」と呼んでいるのか,それがよく解りません。浅川さんがそう
呼んでいるのは,浅川さんご自身,人間の方が質料的であり,人格の方が形態
的であるということを認めており,従ってまた人間=人格という図式を否定し
ているからであるように思われます。

3. 商品所持者の位置付け

 ここでは,商品所持者の位置付けについて,質問します。俺自身,浅川説と
決定的な違いの発生点がどこにあるのか,今一つ把握しきれていないのです
が,恐らく,商品所持者の位置付けにあるのではないかと思うのです。

3.1 相互的承認の主体はなにものか

 第一の質問は──繰り返しになってしまいますが──相互的承認の主体の位
置付けの問題です。要するに,一体,誰が相互承認しているのかということで
す。この主体は相互的承認に先行して(voraus)措定され(setzen)なければ
なりません──つまり相互的承認に前提(voraussetzen)されなければなりま
せん。浅川説でも今井説でも法的人格は相互的承認によって措定されるわけで
すから,相互的承認の主体は法的人格であってはならなりません(蛹化の主体
は毛虫であって,蛹ではありません。毛虫が蛹化によって蛹になるわけで
す)。そして,ご承知のように,今井説では,これに商品所持者という人格が
割り当てられているわけです。
 この点について,浅川さんは次のように述べています。──

>「人間」たちは、人格化した物象を身に纏い、この扮装を互いの資格証明として
>承認しあいます。
(“[ism-study.74] Correcting  my scheme”)

それでは,「人格化した物象〔=経済的扮装〕を身に纏」った「「人間」た
ち」(=商品所持者)をなんと呼ぶのでしょうか? 浅川説では,「「人間」
たち」=商品所持者は分裂の一極(形相因の極)だけを代表している以上,
「「人間」たち」=商品所持者は「人格化した物象〔=経済的扮装〕を身に
纏」っていません。「「人間」たち」=商品所持者は,ただ分裂の一極である
限りでのみ,ただ形相因と質料因との統一でない限りでのみ,「「人間」た
ち」=商品所持者であるわけです。
 ところで,「「人間」たちは、人格化した物象を身に纏」う瞬間に,既に形
相因と質料因とを統一してしまっているはずです。つまり“身に纏う”という
仕方で統一してしまっているはずです。商品所持者=「「人間」たち」(質料
因)は「人格化した物象」(形相因)を身に纏って“いない”からこそ,質料
因という極にとどまりうるはずです。従ってまた,浅川説では,「「人間」た
ちは、人格化した物象を身に纏」う瞬間に,最早──少なくとも両極の分裂的
一極としての──「「人間」たち」=商品所持者」は消え失せ,既に現実的統
一としての「“人格”」(二重クオテーションマーク付きの人格)が成立して
しまっているはずです。
 しかるに,浅川説では,──

>相互承認による法的人格の措提
(同上)

という箇所からも明瞭であるように,法的人格=「“人格”」(二重クオテー
ションマーク付きの人格)は「相互承認」によって「措定」されるわけです
(この点では,今井説も同じです)。それでは,この「相互承認」が経済的扮
装を「身に纏」うということかと言うと,そんなことは決してなく,浅川さん
も「「人間」たち」は,(1)「人格化した物象を身に纏い」,その上で,(2)
「この扮装を互いの資格証明として承認しあ」うということを認めていらっし
ゃるわけです。つまり,経済的扮装を「身に纏」って初めて,主体は「資格証
明」を獲得し,従ってまた「承認しあ」うことができるわけです。浅川さん
も,経済的扮装を身に纏っていない段階と,相互的に承認された段階との間
に,中間段階として経済的扮装を身に纏っている──だが相互的に承認された
わけではない──段階を認めていらっしゃるわけです。
 このように,浅川説では,経済的扮装を身に纏っていない──経済的扮装を
身に纏う前の──主体が商品所持者であり,これに対して,相互的承認によっ
て措定された──相互的に承認された後の──主体が法的人格であるというこ
とは明確です。しかし,経済的扮装を身に纏った後の──しかしまた相互的に
承認される前の──主体(これが実存するということは浅川さんご自身が認め
ていらっしゃる)の位置付けが不明確なのです。
 これに対して,今井説では,「人格化した物象を身に纏」った「「人間」た
ち」こそが「そのものとして捉えられた商品所持者」です。つまり,浅川説と
は違って,商品所持者が既に形相因と質料因との統一なのです。だからまた,
浅川説とは違って,商品所持者は人格なのです。

3.2 経済的扮装というのは商品所持者という扮装ではないのか

 以上の点に関連して,浅川さんは次のように述べています。──

>そのものとして捉えられた商品所持者は、人格ではない
>ので、商品所持者の措提は、“物象が商品所持者という人格になる”という意味での
>物象の人格化ではありません。ですが、商品所持者が商品を持って交換過程に現れる
>こと(商品所持者の措提)は、物象の主体化という意味での物象の人格化の直接の結
>果です。所持者は、主体化した物象の運動を媒介するために交換過程に登場しなけれ
>ばないらないのだと考えます。
([ism-study.75] RE:  Some Questions On Asakawa san's Schemes)

 細かいところで,いくつかよく解らない点はありますが,いずれにせよ,
「商品所持者の措定」が「商品を持って交換過程に現れる」瞬間に生じるとい
うこと,そして商品所持者は「主体化した物象の運動を媒介する」ということ
には解釈の余地がないと思います。更に,浅川説では,物象の運動には「主体
化」(浅川説では,少なくともこの場面では[*1]人格化と同義です)していな
い段階(「物象の連関」の段階)と「主体化」している段階とがあり,ここで
主体化した物象とは「経済的扮装」のことであるということも明白です。しか
し,そうだとすると,“商品所持者は経済的扮装(浅川説では資本主義におけ
る人格性)「の運動を媒介するために交換過程に登場」する”ということにな
ります。

[*1]「少なくともこの場面では」と言うのは,物象化自
体が主体化──客体の主体化──でもあると俺は考える
からです。けれども,ここでは,浅川さんが経済的扮装
の措定という位置付けを与えているような「人格化」の
場面だけを問題にします。

 これがですね,“商品所持者は物象(=商品)「の運動を媒介するために交
換過程に登場」する”ということであるのに過ぎないならば,よく解るので
す。ところが,浅川さんはそうではない(少なくともそれでは不十分だ)とお
っしゃる。あくまでも,それは経済的扮装(浅川説では資本主義における人格
性)の運動の媒介だとおっしゃる。単に物象の運動の媒介であるだけではな
く,人格化した物象の運動の媒介であるとおっしゃる。けれども,それならば
それで,その場合の経済的扮装(人格化した物象)というのは,商品所持者が
纏っている経済的扮装,すなわち“商品所持者”という経済的扮装以外のなに
ものであるのでしょうか。

3.3 質料因に「還元」されたものが商品所持者でありうるのか

 もっと言うと,どうも,浅川さんが「人間」(括弧付きの人間)と商品所持
者とを等置しているのがよく解らないのです。商品所持者は“商品の”所持者
であって,物象相関的な規定(ただ商品という物象との関連でのみ成り立つ規
定)であり,物象前提的な規定(商品という物象を前提しなければ成り立たな
い規定)です。
 浅川さんが「人間」(括弧付きの人間)という概念を持ち出してくるのはよ
く解るのです。と言うか,これは俺がこれまでの議論であまり問題にしていな
かった論点であって,浅川さんの投稿のおかげでクリアに問題設定された論点
です。けれども,それが商品所持者と等置されているのがよく解らないので
す。俺の考えでは,「人間」(括弧付きの人間)は商品所持者の一側面であ
り,商品所持者自身が「人間」(括弧付きの人間)という側面と,“商品所持
者という経済的扮装”という側面とを統一しているのであって,浅川説とは逆
に,「そのものとして捉えられた商品所持者」は「人間」(括弧付きの人間)
とは違うように思われるのです。

4. 経済的扮装の位置付け

4.1 経済的扮装の措定はどのような意味で主体化であるのか

 既に見たように,浅川説では,「人間」(括弧付きの人間)が質料因と形相
因との分裂的両極の中で一方の極──質料因の極──だけを代表する以上,経
済的扮装は他方の極──形相因の極──だけを代表するのであるということは
明らかです。更に,──

>〈物象の連関→経済的扮装〉=物象の人格化
>(物象が主体化することであり、「人間」自体の人格化ではありません)

という箇所から判断すると,浅川説では,経済的扮装の措定が物象の人格化で
あり,しかもこの人格化が物象の「主体化」であるということも明らかです。
 ところが,よく解らないのは,単なる形相因としての経済的扮装が物象の主
体化であるということなのです。経済的扮装は,主体化である以上は,主体と
しての位置付けをもっているはずです。しかし,質料因から切り離されてどの
ような主体があり得るのか,よく解らないのです。いわば,仮面を着けた主体
あるいは主体が纏っている仮面ではなく,主体から切り離された仮面をイメー
ジしてしまいます。
 ところで,浅川さんは,一方の極である「人間」(括弧付きの人間)につい
ては,次のことを認めていらっしゃいます。──

>商品所持者は、質料的なものに貶められているといっても、実際には類
>的本質としての人間ですから、当然、意思と意識を持っています。質料的なものに「自
>己還元」してしまっているといっても、意思的契機や社会的な形態規定や類的本質を
>自分自身から物理的に分離できるわけではありません(あたりまえのことですが)。
(“[ism-study.75] RE:  Some Questions On Asakawa san's Schemes”)

 そうだとすると,他方の極である「経済的扮装」がどのようなものであるの
か,やはり解らないのです。この「経済的扮装」も「人間」(括弧付きの人
間)と同様に,質料的かつ形態的であるのか,それとも純粋に形態的であるの
か。もし純粋的に形態的であるとするならば,それならばそれで,「経済的扮
装」はどのような意味で“主体”であるのか,それとも「主体化」によって措
定されたものであるのにも拘わらず“主体”ではないのか。逆に,もし「経済
的扮装」が質料的かつ形態的であるならば,それは既に質料因と形相因との統
一ではないのか──このような疑問が生じるのです。
 あるいは──もっと言うと──,浅川さんがおっしゃるような他方の極とし
ての「経済的扮装」とは,物象の人格化のことではなく,物象(的関係)その
もののことではないのかという疑問が生じるのです。類的本質が形相因と質料
因とに分裂している場合に,形相因の極とは実は物象そのものであるように思
われるのです。
 ところが,浅川さんは,そうではなく,それは“主体化としての”物象の人
格化によって措定されるとおっしゃる。浅川さんの図式を見ると,類的本質が
「物象の連関」(形相因)と「単なる質料的媒介物」(質料因)とに分裂して
います──ここまではよく解るのです。これはもうおっしゃる通りだと思いま
す。ところが,浅川さんはもう一歩進んで,質料因抜きで物象の連関が「主体
化」しているということになっているわけです。そこで,分裂の一方の極とし
ての「経済的扮装」は一体どのような“主体”であるのかということが解らな
いのです。

4.2 経済的扮装の措定はいつ成し遂げられるのか

 それでは,この経済的扮装はどこで発生するのでしょうか。
“[ism-study.74] Correcting  my scheme”での図式を見る限りでは,先ず
「人間」(括弧付きの人間)=商品所持者の措定があり,次に──「物象への
拝跪」を通じて──経済的扮装の措定があるようです。これによると,商品所
持者の措定は経済的扮装の措定に先行します。ところがまた,浅川さんは次の
ようにも述べています。──

>商品所持者が商品を持って交換過程に現れる
>こと(商品所持者の措提)は、物象の主体化という意味での物象の人格化の直接の結
>果です

これによると,経済的扮装の措定(浅川説では物象の人格化=主体化)は商品
所持者の措定に先行します。どうもこの点の整合性がしっくりと来ないので
す。
 以上,質問がかなり漠然としているかもしれませんが,俺自身,浅川説の根
幹をなかなかうまく把握しきれていないので,宜しくお願いいたします。