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浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
もう一つ付け加えると,大西さんは,久米宏の生産力と大工業の生産力とを
区別した上で,前者の場合では労働者が個人の個性・創意性を発揮していると
主張します[*1]。それならば,後者では労働者が機械の付属物として個性・創
意性を失うということになるでしょう。しかし,果たしてそうでしょうか?
人間は機械の付属物になると,動物あるいは機械そのものになってしまうので
しょうか? 機械の付属物になるということが逆に個人の最高のイニシアチブ
の(但し一面的・抽象的な)発揮を必要とするということが,ものの見事に忘
れ去られています。
[*1]「労働者がどれだけ豊かな個性を持つか,どれだけ
創意性を蓄えることができるか」(大西(1990),第60頁)。
現実的には,労働者は一面では完全に個性・創意性(そして知識を含むあら
ゆる能力)を奪われながら,他面では全く逆に──金儲けの役に立つ限りで,
金儲けの役に立つという一面的・抽象的な仕方で──最大限の個性・創意性
(そして知識を含むあらゆる能力)を「持」ち「蓄え」て,発揮するというこ
とを強制されるわけです。
誤解がないように言っておきますと,久米宏の例なんていう馬鹿げた(特殊
的な[*1])例解を別にすると,現代資本主義の発展において,資本の金儲けに
とってますます個人の個性・創意性──それに加えて知識──が重要になって
きているということに疑いの余地はありません。そしてまた,それが未来社会
の実現と大いに関連を持っているということにも疑いの余地はありません。問
題はそれの位置付けだけなのです。
[*1]別に最近の事例を出さなくても,王貞治は,少なく
とも,久米宏が放送界において占めている程度の個性・
創意性を野球界において占めていたでしょうし,久米宏
がテレビ朝日に対して発揮している程度の力関係を読売
球団に対して発揮していたでしょう。要するに,久米宏
の例は,最近の傾向を示しているのではなく,職業の特
殊性を示しているわけです。
何故にこんなことを強調するのかと言うと,労働者が機械の付属物であると
いう側面(資本主義的生産の敵対性)と労働者が個性・創意性を発揮するとい
う側面(資本主義的生産の社会性[*1])とが一体であるということが忘れられ
てしまうからなのです。そこで,このような個性・創意性が金儲けのための
(敵対的な)個性・創意性だということが忘れ去られてしまいます。また,未
来社会と現代社会との区別もどこかに吹き飛んでしまいます[*2]。
[*1]労働者が個性・創意性を発揮するということが何故
に「社会性」であるのか,腑に落ちない方もいらっしゃ
るかもしれません。けれども,大西さんが言及している
個性・創意性は金儲けにとっての個性・創意性であっ
て,その限りで社会的な個性・創意性なわけです。大西
さんが言及しているのは,風呂に入るときに脚から洗う
か手から洗うかといった“個性”ではありませんし,髪
を洗う時に自ら進んで自分の髪質・髪量に合った洗い方
を選択・考案するといった“創意性”ではありません。
[*2]実際にまた,大西(1990)を読む限りでは,時短を
進めさえすればますます労働者が資本の専制から自由に
なって,朝起きたらいつの間にか自動的に未来社会が形
成されているとしか読めません。ここには,資本が一つ
のシステムを社会的に形成しているということの認識
も,ほかならない労働者がこのシステムを形成している
ということの認識も欠けているように思われます。どう
も俺には,大西さんは,資本と言ったら個別的資本(社
会的総資本から切り離された)しか考慮に入れておら
ず,結局のところ,個別的資本を社会的総資本から単純
に(無縁なものとして)切り離しているように見えます
し,また労働者と言ったら資本と単純に対立するものと
してしか把握しておらず,労働者を資本から単純に(無
縁なものとして)切り離しているように見えます。
参照文献
大西広(1990),「資本主義と社会主義の現実から学ぶ」,『どこへ行く 社
会主義と資本主義』,かもがわ出版