表題: | [ism-topics.172] Gourmet of Class-C (KUMAMOTO Ramen) |
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投稿者氏名: | 今井 祐之 |
投稿日時: | 2000/01/03 01:00:02 |
ジャンル: | 連載記事(C級グルメ) |
コード: | 不快な表現 |
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食前・食中は,および食後30分以内は,この投稿を読まないでください。
ISM研究会の皆さん,味のトリッパーでラリパッパー,今井です。今回はサ イケデリックな叉焼(チャーシュー)麺です。1900年代の最後にこんなもの を,こんなものを,こんなものを食する幸運に出会うとは思いませんでした。 私もあまり破廉恥に営業妨害をしたくはありません。何度も言っているよう に,所詮,旨い,不味いなんて個人の主観です。しかも,今日ご紹介いたしま する店は,サービスもはきはきしていて,ラーメン屋としてはこれと言って難 点はありません。 加えて私は中小企業のパートナーとして知られています。大手外食チェーン とか大手食品メーカーとかを攻撃するならともかく,街のラーメン屋を攻撃す るのは弱いものいじめのようで,あまり格好いいとは言えません。工場で作っ て冷凍保存しておいたものを電子レンジで温めるだけなのとは違って,一応, ラーメン屋のおやじさんがそれなりに一生懸命,作っているのでしょうから, なんとなく気が引けます。 そうすると,800円という値段との兼ね合いが,やはり問題になります。以 前に申し上げたように,安価であれば不味くても文句を言うべきではないでし ょう。で,私の個人的な基準で言うと,800円出せば,安い中華料理屋で中華 麺を食べることができます。同じ値段であれば,私なら中華料理屋で中華麺を 食べます。私の考えでは,やはりラーメンの魅力は手軽に,気軽に,安価に, 腹ごしらえすることができるという点にあるのです(これに対して,ラーメン 好きの方は,ラーメンは中華麺の代用品ではなく,中華麺とは全くの別物であ って,中華麺よりもずっと美味しいものであり,うまいラーメンにはいくら金 を払っても惜しくないと主張するでしょう)。そう考えると,私の偏見では, 800円も出して,なんでラーメン屋で叉焼麺を食べなければならないのか,正 直言って,よくわかりません。 とは言え,最近では,叉焼麺一杯800円というのは,とんでもなく高いとい うものではないでしょう。寧ろ,社会的に見ると,標準的な価格設定なのでは ないでしょうか。この時点でそもそも私は現代社会について行けていないので すが……。こうして,社会的基準からは,この店のラーメンを食べたとき,私 は“やられた君”になっていたのではないということになります。 この店の名誉のために一言,付け加えておくと,客は結構,入っています。 かなり,入っています。ですから,少なくともラーメン好きにはこの店のラー メンは堪らない味なのかもしれません。その上,そもそも豚骨ラーメンの人気 が高いのは皆さんご承知のとおりです。しかるに,私は生まれてこの方,旨い 豚骨ラーメンというのを食べたことがありません。ですから,ひょっとする と,この店の味こそが標準で,特異なのは私の嗜好の方なのかもしれません。 けれども,皆さんご存じのように,私は意地汚い人間です。しかも貧乏性で す。不味い不味いと言いながら,出されたものは全部食わないことには気が済 みません。腹が一杯でも,金を払うからには無理やり全部平らげずにはいられ ません。その私が殆ど残してしまったのですから,私としては,やはりこのラ ーメンを皆さんに紹介せざるをえません。 こういうわけで,今回は私は“やられた君”ではなく,“たまげた君”で す。旨い,不味いは個人の好き嫌いの問題だということをご承知の上で,私が どれほど驚いたのかということをご覧ください。糾弾するのが目的ではないの で,店名は伏せます。 ************************************************** 1900年代も終わりに近付いた頃のことである。とある研究会が終わった帰 り,みんなで河豚を食べに行こうということになった。一人当たり2,500円で フグを食べさせる店があると言う。コースで,薄造り,河豚皮の寒天寄せ(断 じて煮こごりではない),チリがついてきた。味については論評を差し控える べきだろう。新宿で2,500円で河豚が食べられるのだ,企業努力を誉めるべき である。品質が二の次,三の次,四の次なのは仕方がないことだ。ただ,河豚 を食べようなんて気を起こさなければ,同じ2,500円で遥かに旨いものが食べ られるということだけは断言しておこう。 味はどうでもいいとして,2,500円のコースでは,やはり量は圧倒的に少な い。どうしても腹が減ってかなわない。そこで,腹の足しにラーメンを食べに 行くことにした。 あちこちに立ち上る紫の煙,ときおり聞こえる悲鳴,どこからともなく流れ てくる安香水,マッチ売りの少女,謎の中国人……。アルタ裏の人外魔境,無 法地帯に,その店は蜃気楼のように佇んでいた。熊本ラーメンの店だと言う。 店を入った瞬間に,豚脂の高貴な酸化臭と豚骨の芳醇な腐敗臭とがそこはか となく漂ってきて,私の食欲を刺激するだけでは足りず,満腹中枢さえ刺激 し,私はもうすっかり満足していた。私は店に入ったその瞬間に,もう既に鼻 でラーメンを食べてしまっていたのだ。従って,改めてラーメンを注文するま でのことはない。かと言って,何も食べないわけにはいかない。 「叉焼とビール,お願い」 「申し訳ないのですが,ビールはありません。叉焼だけというのもないんです よ」 「あぁ,そうなの? じゃぁ,叉焼麺」 程なく叉焼麺がやってきた。なんと美しいことだろう,この世のものではな い。スープが石油タンカーの流出事故なら,叉焼は重油まみれで飛べなくなっ たカモメのようである。スープが血の池なら,叉焼は針の山で前非を悔いてい る罪人のようである。偉大な芸術家は,僅か直径20cmの丼ぶりの中に,命の儚 さを,そしてそれとともに命の尊さを余すところなく描いていたのだ。これで 何も感じなければ,そやつはもはや人にあらず。そうだ,私も明日,グリーン ピースとアムネスティに寄付しよう。 ニンニクの微塵切りが浮いているが,真っ黒に焦げている。ニンニクの調理 というものは,こうでなければ駄目だ。大抵の店では,手間暇かけるのを忘れ て,ニンニクが香ばしくなったところで油から出してしまう。だが,苦労を惜 しまずじっくりと,ここまで真っ黒に焦がしまくってこそ初めて,最高級の備 長炭を思わせる上品な苦みが,体に優しい発ガン性物質ととともに,十分にニ ンニクから引き出されるのだ。 浮いているのは,黒焦げニンニクだけではない。豚の脂から出る旨み成分が あまりに濃密なために固体化して,裸眼にも見えるようになっている。アクと 呼ばれるこの旨み成分は,形状は上質なセロファンのようだが,色彩は黒く煤 けている。爛れたスープの中で,それは退廃美の極致を越えて,腐敗美にまで 昇華している。この境地にまで達した脂アクが,食通の間で“ラード湯葉”と 言われて珍重されているのは,皆さんもよくご承知の通りである。 煮物をする時などに,アクと呼ばれるこの旨み成分が表面に浮いてくること は誰でもご存じだろう。だが,これは主に肉(血液など)・骨・野菜などに含 まれている不純成分であって,脂身から出るアクについては,日ごろあまり注 意を払っていない方も中にはいるかもしれない。そこで身近な料理を例にとっ て,豚脂のアクをイメージしてみよう。 東坡肉(トンポーロー)。──偉大なる蘇東坡の名を冠したこの料理の作り 方にはいくつもあるが,いずれにせよ,コツは焼く・煮る・蒸す・冷ますなど の手法の組み合わせによって,バラ肉のゼラチン質を十分に残しながらも余分 な脂を徹底的に削ぎ落とすことにある。よく“東坡肉はバラ肉だから,脂っぽ い”などとほざくバカがいるが,まともな東坡肉を食べたことがないのであろ う。さてその時に,脂とともに大量に出てくるのが,アクと呼ばれるこの旨み 成分である。 ところが,大抵の中華料理屋は,このラード湯葉を慎重に捨て去ってしまう のだ。ことほどさように,全く以て中国人は豚脂の食べ方を知らない。豚脂の 中で一番美味しいアクを捨ててしまっているのだ。 そうだと言うのに,よくもこの店は,いやよくぞこの店は,後生大事にこの 脂アクをとっておき,ラーメンの上に惜しげもなくふんだんに振る舞っている ものだ。私はこれほど大量のラード湯葉を見たことがないから,眼福ここに極 まり,思わず失明しそうになったくらいだ。今でも想い出すたび,歓喜のあま り,はらわたが煮えくり返ってくる。 次に匂いを嗅いでみた。心地よく濁った香りが胃液のPh値を倍増させる。胃 酸,今こそ龍にならんと欲して,乾坤一擲,滝を昇りたり。ハァ〜, イヨォ〜。 これが“猪八戒の沈香”と言われ,かの西大后が溺愛した香りである。数限 りない薬物にまみれながら,天道に背を向けて,堕落と怠惰の限りを尽くして きた破戒豚の匂いなのだ。悪魔の誘惑と地獄の享楽が鼻孔から脳天に突き抜け る。 だが,それだけではない。上等なゴミ捨て場のさわやかな風を思わせるこの 香りはなんだろう。豚骨からとった出しにはそのような高貴な香りが必ず付く のだとお考えの方もいるに違いない。だが,それは大間違いである。詳しいこ とはよく知らないが,要するに,ラーメンの豚骨スープとは,中華料理で言う と白湯(パイタン)スープのことだろう。まともな白湯スープには,こんなに 典雅な香りはしない。何か秘密があるはずだ。 「ふふふ,この私を試そうとてか」 この隠し香は,……そうだ,ヘドロだ。正真正銘,なんの添加物も入ってい ない,江戸前のヘドロだ。仕上げ段階で,香り付けに,海のシャネルNo.5とも 称される5年物の最高級のヘドロを数滴,スープにたらしているのだ。 ヘドロ漁の,朝は早い。都鳥(ゆりかもめ)が時を告げるのと同時に,船を 出す。朝霧が晴れてしまっては,良質なヘドロは砂の下に隠れてしまうから だ。 ヘドロは熟成されるに応じて段々と水深が深いポイントに移動していく。水 深1メートルほどになると,海底にヘドロが溜まり始める。これを取るのであ れば,さして苦労はあるまい。だが,そのようなヘドロは一般に“若紫”と呼 ばれ,味も香りも深みがない。限りある海洋資源を枯渇させないよう,若紫は 自然の熟成に任せるのがヘドロ漁師の掟だ。しかも,水深が20メートル以上に なると,“六条”と呼ばれるようになり,食べると当たってしまい,もはや売 り物にはならない。築地の市場に出回るのは,主に水深10メートルの地点にあ るヘドロである。 中でも,やや青みがかったヘドロは“藤壷”と呼ばれ,味,香りとも最高と 言われている。藤壷は上質な工場廃水と上等な生活廃水が海の中で堆積し,5 年間,熟成されたもので,東京湾の中でもごく限られた場所にしかない。ヘド ロ漁師たちは藤壷が発生するポイントを見付けることに一生を費やし,ひとた びわがものにしたポイントの秘密を守ることに一生を捧げる。 たとえいいポイントを見付けても,ポンプで吸い上げようとすると,藤壷も その他の安物ヘドロも混じってしまう。そこで,藤壷の収穫は今でも伝統的な 漁法で行われる。ヘドロ漁師が素潜りして,竹で細かく編んだヘドロ壷に少し づつ丁寧に素手ですくっていくのだが,これが難しい。ちょっとでも乱暴にや ると,藤壷が海水の中に散らばってしまう。純度の高い藤壷を手に入れるに は,親から子へと代々受け継がれてきた熟練の技が要求されるのだ。 最近は築地でも外国産の安いヘドロが席巻しており,江戸前のヘドロ漁は存 亡の危機に瀕している。1960年代には300人を数えたヘドロ漁師も今では僅か に2人を残すのみだ。しかも,残った二人とも,既に高齢,子供たちは“ヘド ロ漁は手が汚れるから”と言って,会社勤めの方を選んだ。今すぐに手を打た なければ,あと10年で日本の伝統的なヘドロ漁は,歴史の荒波の中で消えてし まうかもしれない。 話を元に戻そう。人間が生きていく上で,胃の中の有害物質の量を調整する ことは必要不可欠である。まっこと,心地よい吐き気を催すというのは,生命 の神秘のなせる業だ。嘔吐,正に,不老の奥義にして,長寿の秘訣なり。しか るに,かのラーメンの芳香は,人体のこの根源的な回復作用を活性化させる。 さすれば,かのラーメンこそは,医食同源を体現していると言うべきではある まいか。 さて,私は目で見て,鼻で嗅いだ。今度は舌で味わう番だ。その前に,周り の連中はどんな顔でラーメンを食べているのか,見回してみよう。するとどう だろう,左隣りのやつは白目を剥いて“お魚が泳いでる,お魚が泳いでる,こ こは海ん中,ここは海ん中”とうわごとを言っている。右隣りのやつは涎を垂 らして“ごめんなさい,ごめんなさい,ぼくが悪いんです,ぼくが悪いんで す”と謝っている。対面のやつは涙を流して“最高です,最高です,最高で す”と叫んでいる。一体どんな味がするのか,期待に胸が膨らむ。 麺を一口だけ食べた。その瞬間,私の頭蓋骨の中から── パッキーン パッキーン パッキーン という音が聞こえるや否や,私は百代の過客になっていた。 目の前に胎蔵界曼陀羅が拡がる。無限の空間と永遠の時間の中に梵天の姿が 見える。今や私は前世・現世・来世を見通し,宇宙の中心と最果ての間を自由 に行き来している。 おや,そこにジミヘン[*1]がいるではないか。ジミヘンは伽羅香を焚き込ん だ羽二重の白装束を着ていた。アフロヘアにはあんまり似合っていなかった。 [*1]ジミヘン【人名】左利きの有名な楽器解体業者。木 の床に叩きつけるという乱暴な解体を繰り返していくう ちに,遂には焼却解体法に手を染めるに至り,放火の罪 でつかまる。服役中に宗教に目覚め,LSDを使って修業 している間に即身仏になる。歯が器用だった。──『現 代聖人事典』(高天原出版社,第三版)より。 食の芸術を究めると,或る種の麻薬に行き着く。このラーメンがそれで, 舌,喉,十二指腸の神経を瞬時に麻痺させ,悪夢の中に悦楽の絶頂を味わうこ とになる。この圧倒的な法悦の前には,旨いとか,不味いとか,そのようなう つしよの言の葉はおよそ意味を失う。もしこれ以上このラーメンを食べていた ら,私は丼ぶりの上で腹上死していたに違いない。 気が付くと,私は夜の帳の中を歩いていた。“ふっ,今年ももう終わりか。 グッバイ,1900年代。お前の時代は終わったのさ”と呟いた。