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 ISM研究会の皆さん,食卓のパルチザンこと今井です。今回も個人的な趣味
の押しつけなので,ご注意ください。

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 今回のお題はサンドウィッチである。伝説によると,トランプで遊ぶ際に片
手で食べられるようにと,ギャンブル狂いのサンドウィッチ伯爵が考案したも
のだと言う。日本で言うと,鉄火巻のようなものか。やくざな食べ物だ。

 随分と前,バブルの頃である。友人の結婚披露宴が新宿のとあるホテルであ
った。披露宴は5:30から始まるが,それまで時間があるので,友人たちと待ち
合わせて新宿をぶらぶらしていたが,いまさら新宿で行きたいところもないの
で,早めにホテルに向かった。とは言っても,やはり何もすることはないか
ら,ホテルの喫茶店で暇をつぶすことにした。

 それにしても,結婚披露宴の食事とは酷いものだ。私の友人・知人・親戚に
リッチマンが多くないせいか,経験上,酷すぎると断言できる[*1]。240度の
オーブンでなんとかコレラ菌を焼き殺した伊勢海老のテルミドール,目を近付
けると裸眼でもサルモネラ菌の蠢く様子が見えるに違いない手毬寿司,その濁
った茶色でヘモグロビンの作用を教えてくれる鮪の刺身,出来損ないのハマチ
としか思えない鯛の刺身,茶碗蒸しの冷製,ローストビーフのルイベ……。

[*1]最近はそもそも披露宴をしない者,あるいは街中の
レストランで披露宴をする者が増えてきた。結構なこと
だ。少なくとも食中毒で死ぬ心配はない。

 やはりここは,披露宴の前に軽く腹ごしらえをしておく必要がある。どれど
れ,ふむふむ,ハムサンドというものがある。これにしよう。値段は……壱千
と伍百圓! 正に伯爵の名を冠するに相応しいリッチな価格だ。1,500円のサン
ドウィッチとは果たしていかなるものか。私の心は期待にときめいた。

 ミルクティーを飲みながら待っていると,やって来た,やって来た。これが
貴族の軽食か。よく見てみよう。

 サンドウィッチの数は,全部でたったの四つだ。四という数は幸運の印,四
つ葉のクローバーに通じる。トランプに己れの誇りと財布を賭ける冒険者たち
が縁起を担ぐのは当然のことだ。

 パンの耳は綺麗に切り取られ,穢れなき純白の,二等辺三角形の幾何学的形
状で,味の芸術を表現している。直角をなす二片の長さは僅かに5cmあるかな
いかだ。よく知られているとおり,イギリスの貴族には,生まれつき口が小さ
い者が多い。その上,大口を開けてものを食べては,社交界から追放されてし
まう。“大口を開けて食べるのは,ミックジャガーと蛙くらいのものだ”とい
う諺があるほどだ。5cmという長さは,正に貴族の貴族たる証を体現している
のであろう。問題はパンの耳がないことだ。

 われわれは給食の食パンという文化破壊食品[*1]を食べてきたから,パンの
耳は不味いものだと思い込んでいる。だが耳こそは,食パンで最も旨い部分な
のだ。

[*1]今でも想い出すとムカムカしてくる。あんな偽物の
パンを作ったら,フランスやドイツなら逮捕されて刑事
罰を受けるところだ。

 大体からして給食というものは,“給食教育”なる名
目のもとに,食事を快楽から教育に転化してしまい,食
事の楽しみを子供たちから奪い取ってしまった。食事は
大いなる喜びであって,激しい苦しみではないはずなの
に,だ。

 それだけではない。幸いにも私は食い意地だけは張っ
ていたからよかったが,小中学校教員たちは,インチキ
食パンの耳が食べられないという正常な味覚の持ち主に
対して,居残りさせてでも無理やり食べさせるというフ
ァッショ的暴力を振るっていた。民主教育の実態はあれ
だった。私は民主教育の真実を見た。食事が遂に弾圧の
手段にまで昇華した瞬間であった。

 嘘だと思うならば,試してみたまえ。クロワッサンのカリカリの部分を,ま
るでタマネギの皮をむいていくかのように次々とめくってみる。つまり真ん中
の真っ白な部分だけを食べるのである。びしょびしょしていて,ぐにゃぐにゃ
していて,バター臭くて,小麦臭くて,不味いだけである。やはりクロワッサ
ンはこんがりとカリカリに焦げた皮の部分が美味しいのであって,これと一緒
に食べるからこそ,中の部分も生きてくるのである[*1]。

[*1]言うまでもなく,本物のクロワッサンを念頭に置い
ている。給食の食パンと同じく,外見上はクロワッサン
によく似た全く別の食べ物が,市場を席巻しているので
注意が必要だ。本物のクロワッサンは,最初に一噛みす
るとパリッと音がし,嬉しくなって堪らず噛み続ける
と,サクサクサクッと音がするものだ。

 クロワッサンだけではなく,日本の大きな菓子屋のシ
ュークリームは,chou à la crème(シュー・
ア・ラ・クレーム)のパリパリ感とは似ても似つかぬふ
にゃふにゃした代物だし,折りパイもpâte 
feuilletée(パート・フィユテ)のサクサク感とは
似ても似つかぬぐにゃぐにゃした代物だ。日本人の嗜好
と関係があるのかもしれないが,私はどうしても好きに
なれない。

 ここで“クロワッサンにはバターが入っているではないか,クロワッサンの
皮はバターが焦げるから旨いのだ。インチキ食パンはともかく,まともな食パ
ンにはバターが入っていないから,この比較は不公正である”と私を糾弾する
方がいらっしゃるかもしれない。それならば,フランスパンで考えてみよう。
バゲットで一番旨いのはどの部分か? ぱりぱりとした皮の部分ではないか? 
そもそもフィセル(非常に細いフランスパン)なんて,食パンで言うと耳ばか
りではないか? フィセルを楽しむということはすなわち耳を楽しむというこ
とではないか?

 私は食パンは基本的に,フォションで買うようにしている。何故にフォショ
ンで食パン(フォションはパン・ド・ミと呼んでいる)を買うのか──いやそ
れ以前に,そもそも何故にフォションが(アングロサクソン流の)食パンを売
っているのか──と言われると大いに困る。が,フォションで買うのは家から
近いからである。それにもともと大規模生産の大衆的な食材屋なので,意外と
安い(普通の大きさの食パンが今では消費税5%込みで315円。以前は消費税3%
込みで226円だった)。

 新宿には京王と高島屋とにフォションがあるが,面白いくらいに味が違う。
バゲットとか,プレーンのクロワッサンとか,プレーンのブリオッシュとかを
食べ較べてみると,一目瞭然である。紅茶とか缶詰めならともかく,高島屋の
フォションでパンを買ってはいけない。

 フォションの食パンは決して高級なものではないが,それでもやはり偽物パ
ンではないので,食パンで一番旨いのは耳だという確信を与えてくれる。型に
接している部分はさくさくとした歯ごたえの中に香ばしさを閉じ込めている。
またそれほどではないにしても,型に接していない部分も(卵黄の)つるつる
とした舌触りの中に,香ばしさを秘めている。

 それではなぜに,なにゆえに,このサンドウィッチのパンは,ゴッホの如
く,無残にも耳が切り取られているのか。その調理上の必然性は那辺にあるの
か。それに回答を与えることこそ,この私に求められるべきことだ。それに回
答を与えてこそ,フランス文学史上においてアレクサンドル=デュマが占め,
日本文学史上において谷崎潤一郎が占めた位置を,経済学史上においてこの私
が占めることができようというものだ。

 ちょっと目を転じてみよう。肝心のハムはどうなっているだろうか? ハム
は切られて初めて命が入る。画龍点睛,切りハム入魂。ハムというのはそうい
うものだ。そんなことは五歳の子供でも知っている。

 厚さは僅かに0.5mmのハムが,ほんの一枚だけ入っていた。以前,街中の喫
茶店でハムサンドを頼んだら,プレスハムが出てきたので驚いたことがある。
それと較べると,さすがはホテルの喫茶店だ,ちゃんとロースハムが入ってい
る。けれどもこんなことは当たり前のことだ。驚嘆すべきはその薄さだ。

 ううむ。──私は唸った──。間違いない,人間国宝の御ハム切司(おんは
むきりし),第十五代 肉田吐夢(にくだはむ=五九歳)が一子相伝の秘技と
裂帛の気合いで切ったハムだ。肉田百間,肉田魯庵らを率いる肉田一門の総帥
が,己れの持てる総てを注ぎ込んだハムなのだ。

 ハム切り職人の朝は,研ぎから始まる。神棚に神酒と榊を捧げてから,その
下で脇差しを一心不乱に研ぐ。太刀では駄目だ,脇差しの長さが丁度,ハム切
りに適しているのだ。このハムを切ったのは,間違いなく備前長船。刀も見事
なら腕も見事だ。切断面が限りなく滑らかである。このハムなら,ちりにして
もその旨みが逃げ出すことはないし,アサツキを巻いてポン酢で食べると舌の
上をするりと滑っていくに相違ない。

 本来は有田焼の皿に盛って,透けて見える絵柄の美しさを楽しむべきものだ
が,それを贅沢にもパンではさんでいる。私はこのハムを両手で持って顔の前
に掲げてみた。すると総ての風景が一瞬にしてほんのり染まり,まるで私がバ
ラ色の時代のピカソになったような心持ちだ。これは,はしたないことではな
い。若狭で二枚のハムを一枚ずつ,両目にぺたりと貼り付けて海を眺め見る
と,天の橋立がうっすらと肌色がかるが,これは世に“日暮れの橋立”と呼ば
れ,神代の昔より,貴人の贅沢な遊びとされている。

 それにしても薄い。ため息が出るほどと俗に言うが,ここまで来るとため息
さえ出ない。これほどに薄くハムを切るには,肉田吐夢ほどの達人といえど
も,百の失敗作を詰み重ねて,残るのは一つか二つだ。

 出来損ないは容赦なく叩き割る。なるほどハム切り職人にとって,丹精込め
て切ったハムを捨てねばならぬのは,死ぬほど辛いことだ。だが納得の行かぬ
ハムが後世に残るのは,死ぬより辛いことなのだ。

 さて,もはや先ほどの疑問に回答が出ているであろう。──いくら旨いとは
いえ,それでもやはりパンの耳は,肉田名人が切ったハムの滑らかな舌触りに
とっては邪魔者である。それはまるで,稲庭うどんをピザパイの上に載せて食
べるようなものではないか。ババロアを煎餅の上に載せて食べるようなもので
はないか。

 肉田名人が切ったハムを,あくまでも純粋に味わうためには,それを妨げる
総ての障害を除去しなければならない。主役はあくまでもハムなのだ。そし
てその持ち味を十二分に生かすためには,パンの耳も容赦なく,未練なく捨て
去る。どれほどパンの耳が旨かろうとも,決して惜しんではならない。何とい
うきっぷ,何といういなせ。

 結論を言おう。軽食とはいえ,正に王侯貴族の食べ物であった。これなら
ば,誰しも,1,500円という価格はり〜ずなぶると納得するであろう。

 よくできた前菜は,食べると満腹になるどころか,却って食欲を増進させ
る。このハムサンドが正にそれで,皿の上にはしおれたパセリしか残っていな
いのに,ちっとも食べた気がせず,それどころか食べる前より空腹になってい
る。

 私はこのハムサンドの心地よい余韻を引きづりながら,披露宴会場へと向か
った。披露宴会場では,出てくる餌,出てくる餌,手当たり次第に食べ漁った
が,これも魔法のハムサンドのおかげと言えるだろう。