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 さて,“やられた君”の番外編である。今回は専らサービスというものにつ
いて,語りたい。あぁ,語り尽くしたい。素晴らしい料理店は,サービスだけ
でも,灰の中から現れいでたダイアモンドのごとく,燦然と光り輝くのであ
る。

 私は市ヶ谷でとある研究会に“もぐり”で参加しているのだが,それが終わ
った後は,近世ミミズ文字の解読にかけては並ぶものがないO氏を囲んで,市
ヶ谷界隈で飲むことになっている。その日はKという店に入って,飲むことに
した。

 飲みながらも,私はさんざん,現代社会の変革,そのための政治的実践など
について,大声を上げて演説していた。会もたけなわ,議論は白熱した。

 以前の投稿で,私が火の玉膝小僧症候群に悩まされていることは,読者諸氏
もご存じのことだろう。だがそれだけではない。人類の再生産について哲学的
な考察をする時に,肉体の一部分が充血してしまう先端肥大発作に,私は悩ま
されているのだ。

 その時も私はこの発作に襲われていた。政治的アジテーションに血道を上げ
ながらも,私の大脳は常に人類の未来を深く洞察しているのであった。

 やがて私の目の前の光景がぼやけてきた。肉体の特定部分が充血するからに
は,その分,脳に血液が行かなくなるのは自明の医学的真理だ。最初は眩暈が
する。これを立ちくらみと言う。やがて貧血を起こし,最後は失神してしまう
わけである。目が充血したときに目蓋の上に冷たいタオルを当てるのが効果的
なことからも明らかなように,こういう場合は患部を冷やすのが一番だ。

 私もまた,極度の貧血で大脳が酸欠状態に陥った。段々と目の前が暗くなっ
てくる。その時,薄れ行く意識の中で,女給さんの“お待ちどうさま,八海山
です”という声が聞こえた。すると,どうだろう,この女給さんは,ありがた
いことに,私の肉体のその部分を目がけ,あらん限りの力を振り絞って,よく
冷えた升酒を投げかけけてくださった。

 私の八海山が一筋の滝となって舞い降りてくる。──きらきらと光りなが
ら,スローモーションで。水晶のように澄んだ大きな流れはところどころ鏡の
ように輝き,その回りには岩に砕けた水しぶきが七色の虹をなしている。──
時よ止まれ,君は,美しい!

 刹那の中に,永劫があった。周りの風景も人びとの表情も凍りついたまま,
なかなか酒が落ちてこない。私はこのまま八海山が重力に逆行して升に戻るの
ではないかとさえ思った。

 けれども,やはり熱力学の第二法則は鉄の必然性を以て自己を貫徹せしめ
た。

覆水,盆ニ返ラズ,
美酒,升ニ戻ラズ。
熱損失,生ズトモ,
君,悲シムコトナカレ。
モシ過程,不可逆ナリシカバ,
エントロピー,須ラク増大スベシ。

かくて,私の八海山は升に戻ることなく,私の患部を直撃した。私のズボンの
その部分に,一瞬にしてカスピ海が出来た。たっぷりのキャビアをたたえたチ
ョウザメが泳ぎ回っている。

 シラーの言の葉がベートーベンの交響曲に乗って私の両耳に飛び込んでく
る。神の祝福に,私の細胞一つ一つが歓喜に打ち震える。

 かくて,升はすっかり空になったが,私の患部は十分に冷却されて,かの充
血症状が治まったのである。世にわかめ酒なるものがあると聞くが,その効能
はこれだったのか。

 ここでもまた,女給さんはへらへらと笑っているだけで,こういうサービス
は当然といった顔でいる。アラン・デュカスは,パリとモナコ,合わせて6つ
の星をミシュランで獲得したが,この店は,サービスだけでも,一店で6つの
星を獲得することができよう。

 単に心がこもっているということだけではない。普段から,気の遠くなるほ
どの回数,このような訓練を行っているのだろう,私の患部めがけて升酒を放
出する一連の動作に,何一つ無駄な動きはなかった。心の澄みたること鏡のご
とく,所作の簡潔なること侘茶のごとし。彼女は升酒を運搬するという単純労
働の中に,無限の心と永遠の美を注入したのだ。

 私はまたもや,この真心に応えることができなかった。団子虫のように体を
丸めたが,どうしてもこの命の水には届かない。大谷崎であれば,一旦,膳の
上にこぼした上で,旨い,旨いと言って,すっかり啜り切ったはずである。だ
が私には,それだけの勇気がなかった。痛恨とはこのことを言うのであろう。
美食家への道は厳しく,険しいことを,あらためて確認した一日であった。

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 怒りのあまり,落ちはありません。