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教育評論家の今井である。
私は高校の入学式以来,「式」と名の付くものには,一切出席していない。
当然,成人式にも出席しなかった。だから,今の若者たちがどうしてそんなも
のに出席するのか,私には全く理解できない。だがそういう席に出席したら,
守らなければならない最低限のマナーというものがあるはずだ。
昨日,日本テレビを見ていたら,高松市の成人式の話題が出ていた。酔っ払
った新成人が大騒ぎして,主催者である市長に向けてクラッカーを鳴らし,記
者に対して暴行に及んだたと言う。テレビのニュースでは,“シャンパン”な
るものをラッパ飲みしながら悪態をついている若者の姿が映っていた。新聞の
記事では,──
http://www.asahi.com/0108/news/national08010.html
に出ている。
こいつらの姿を見て,私の全身は怒りに震えた。許せん。全くけしからんこ
とだ。祝いの席だからと言って,何をしてもいいわけではない。一体,周りの
大人は何をしていたのか。どうしてこいつらに,シャンパーニュのおいしい飲
み方を教えてやらないのか。あるいは,周りの大人たちも,おいしい飲み方を
知らないのか。
遠目でしかもほんの数秒だったし,あまり注意もしていなかったから,こや
つらが飲んでいたのが本物のシャンパーニュであるのかどうか,よくわからな
いが,とにかくボトルに口をつけて飲んでいたのは確かだ。もし本物のシャン
パーニュ(あるいは正しく,メトード・シャンプノアーズ──シャンパーニュ
方式──のような,瓶内二次発酵方式で作られたスパークリング・ワイン)で
あるならば,価格の高低に関わりなく,絶対にこういうことをしてはいけな
い。
何も私はこの無軌道な若者たちを責めているのではない。自戒を込めて言っ
ているのだ。私も高校時代はこういう飲み方をして,格好いいと思っていたも
のだ。
だが,こういう飲み方は,シャンパーニュの味わいを決定的に台無しにす
る。何よりもまず,シャンパーニュの命とも言える泡を楽しむことができな
い。その上,泡の醸し出す軽やかな音も楽しむことができない。しかも,光
り輝きながらも濁りなく澄みきっている,あの色も楽しむことができない。
更には,グラスの中でワルツを踊る,あの香りも楽しむことができない。挙
げ句の果てに,空気が入らないし,舌の上を転がらないから,濃厚でありな
がら清純な,あの味も楽しむことができない。正に最低・最悪の飲み方だ。
周りの大人たちは,きちんとフルート(底が深く口が閉まった細長いワイン
グラス)を持ってきて,静かにシャンパーニュを注ぎ,同じ泡と言っても,ビ
ールとはまた違った味わいがあることを,あのクソガキどもに教えてやらねば
ならぬ。なんならば,ビールも注いで飲み比べさせてみるのもいい。それが大
人の責務というものだ。市長の愚劣な演説よりも,よほど新成人に必要なこと
だ。
間違っても,クープ(マリーアントワネットの左の乳房を型どったと言われ
る,平たいグラス)に注いではならない。あれは,シャンパーニュの泡も音も
香りも,全部台無しにする奇跡のグラスだ。あれが使われるのは,結婚披露宴
とか,ピラミッド・ア・シャンパーニュ[*1]とかであるが,なんでそういう時
に使われるかと言うと,泡切れがいいからである。繰り返すが,シャンパーニ
ュの命は,人工的に二酸化炭素を吹き込んだ炭酸水の泡とはとは似ても似つか
ない,瓶内二次発酵で発生した,あの泡である。つまりは,シャンパーニュの
命を断つために,あのクープという代物は使われるわけである。
[*1]グラスでピラミッドを作り,そのてっぺんから,軽
業師よろしくシャンパーニュを注いでいくという,世に
もおぞましい愚劣なアトラクションのこと。もともと大
手シャンパーニュ会社の販促キャンペーンの行事として
始まった。美味の追求とは全く無縁なこけおどしであ
る。
また,もし新成人たちが飲んでいるのがインチキシャンパン(日本語ではよ
くシャンペンとかと言う)であるならば,本物のシャンパーニュを持ってき
て,シャンパーニュの歴史,製法,魅力をきちんと教えてやらねばならぬ。そ
れが新成人に贈る言葉だ。
二十一世紀が到来したと言うのに,日本社会が抱える問題は山積みだ。これ
からを背負って立つ若者たちがこのていたらくでは,日本の未来はない。言う
までもなく,これは教育の責任だ。学校が子供たちに正しい酒の飲み方を教え
てこなかったからいけないのだ。その事を痛感させられる事件ではあった。