本文

 ISM研究会の皆さん,今井です。例によって例のごとく,オチなしです。つ
まんないっす。

          **************************************************

 それにしても,凄かった。日曜日の飲み会が,である。東京ヘーゲル研の後
でやった飲み会のことである。

 何も私は,ワインを飲んでいるところに,いきなり牛鍋が出てきたことを怒
っているのではない。あんなものは食わなければいいだけだ。実際,私は一口
も食べなかった。

 問題は,その後に出てきたチーズである。あれは久々のヒットだ。いや,二
塁打だ。いやいや,ホームランだ。

 なんと言っても,ワインにはチーズが合う。牛鍋は食べなければいいのだ
が,ワインを飲みながらチーズを食べない手はあるまい。幸いにも,青カビ,
白カビ,ハード,フレッシュと,どれもこれも期待を裏切らぬものであった。

 以前に教育テレビのETV特集で,ベルナール=ロアゾーが地元ブルゴーニュ
のガキどもにいろいろな美味しいものを食べさせて,美食教育を施すのとも
に,マクドナルドを糾弾するという愛国的反米教育番組をやっていた。その番
組の中で,ロアゾーの店(ラ・コート・ドール)にフロマージュ(チーズ)を
卸している女主人──この人はパリ革命の挫折の後に農村回帰した,都市出身
のインテリなのだ──が,“バクテリアを殺してはなりません”と何度も強調
していた。

 “あれ? どこかで読んだな”と思って,ロアゾーの半生伝,『星に憑かれ
た男』(ウィリアム・エチクソン著,小林千枝子訳,青山出版社)を開けてみ
たところ,やはりアメリカ人が食べる無菌チーズが激しく糾弾されている。無
菌チーズ蔑視,バクテリア讃美が,ロアゾーの美食追求の一貫した姿勢なのだ
ろう。

 つまりは,そもそも本物のチーズというものは,バクテリアの集合体であっ
て,それ自体,一つの生命体と見做されるべきなのである。魂魄あるものと見
做されるべきなのである。チーズは,それ自身の生命活動を続けてこそ初めて
チーズ足りうるのだ。

 さて,チーズはかくのごとく生きているのだから,天敵である人間に食べら
れる危険に及ぶと,命あるものとして当然の反応を示す。この点では,私たち
人間も犬畜生もチーズも,生けとし生けるものとして,何一つ変わるところが
ないのである。

 一つは,冷や汗をかくことだ。これはわれわれもよく経験があることだろ
う。ゾッとするというやつだ。このチーズも,体の中からあらん限りの水分を
放出し,恐怖というものがなんであるのか,全身で物語っていた。

 一つは,顔色が変わることだ。これまた,われわれもよく経験があることだ
ろう。顔が青ざめるというやつだ。このように,クリティカルな状況下で肉体
の或る部分の色彩が変わるというのは,人間はもちろんのこと,どの動物にも
見られることだ。このチーズも,白カビ・青カビのタイプは黄色く,またハー
ドタイプは赤茶色に変色して,他の生命体に食される己れの不幸を呪ってい
た。これは最早,マリー=アントワネット,一夜にして白髪と変わりたるに匹
敵するのではあるまいか。

 一つは,金縛りにあうことだ。蛇に睨まれた蛙のごとく,また人外のものに
人が出くわした時のごとく,もう体がすくんでどうにも動かなくなってしまう
のだ。このチーズも,パサパサ,バサバサ,ゴワゴワ,ガサガサと,身体中の
関節が骨になってしまったかのようにこわばっていた。

 最後の一つは,分泌物の生成だ。例えば,外敵に襲われた蟇蛙は毒液を分泌
する。全く同様に,人間に襲われたこのチーズは酸を分泌するのだ。あるいは
また,例えば,河豚はテトロドトキシンを生まれながらに持っているのではな
く,外界から毒素を摂取し,蓄積していく。全く同様に,このチーズは生まれ
ながらに酸っぱいのではなく,外界から酸素を摂取し,酸っぱくなっていくの
だ。

 ことほど左様に,このチーズは生命の神秘を開陳し,これによって自己の深
遠なる生命性を証明した。この回り道を通ってまた,それは無菌チーズとは全
く異なる美味しいチーズだということを主張したのである。

 食べねばなるまい。私が,食べねばなるまい。──食べた。私が,食べた。
次から次へと,止まる間もなく。もうこの先,これほどのチーズに巡り合うこ
とはないであろう。