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 今日は、神山です。今井さん、コメントありがとうございます。
 “[ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA Hirosi)”では私
は、古典派と俗流経済学の次の区別はとりあえず、前提だったので書きま
せんでした。
 古典派経済学が科学の眼差し、単なる現象でなく本質をとらえる眼差し
を持つこと。労働価値論的な剰余価値をつかむこの眼差しが、マルクスの
うちに批判的に位置付けられたこと(この眼差しそのものの把握態度の解
消も含めて)。古典派自体分裂的であり、マルクスから分岐した古典派の
滓(かす)は、古典派のイデオロギー性の普及に過ぎないこと。このイデ
オロギー性とは、現代社会を解くのに、すでに現代社会を内面化した個人
(計算人、所有者)を起点にしており、媒介されない前提を外に持ってい
る(神様と同じ)ことです。 

 その上で、
> >新自由主義は、古典派経済学
> >が生産力発展を使命にした点で、人類の幸福の味方だ、といえるのと同様
> >、「進歩的」だということは、今井さんのおっしゃるとおり「当たり前」
> >ですよね。これに対し、これ以前の批判派たちは、疎外の直感において価
> >値があり、俗流経済学の予定調和的世界はこれの裏返しで俗物的である。
と書いたのは、批判派=疎外の固定化論と、生産力の推進論という2つの
捨象をもんだいにしたつもりでした。捨象だから、補い合っているのです
。疎外の孤立的認識は、生産力が人間の幸福の基盤だということの捨象で
あり、反生産力の主張にならざるをえません。これに対して、生産力の主
張は、対立性の捨象です。
 そのうえで、科学的な資本の推進論(リカード)と非科学的な資本の推
進論とを区別できます。今井さんが、
> 自己の理論構造によって生産力発展と蓄積進
> 行とを時代の当為として提唱することができたということが古典派の積極的な
> 意義なのだと思います。

>理論の内容そのものの位置付けでは,新自由主義は俗流経済学と同じよ
>うに見えます。
述べていらっしゃるのもそのとおりだと思いますが。

>新自由主義 は,ただソ連・東欧社会主義,西欧社民主義,ケインズ主義
>に対する限りでのみ,進歩的だと言うことができるのだと思います。

 付け加えると、ケインズ主義も進歩的です。諸個人の共同物である資本
の、運動形態の発展だからです。反ケインズ主義、反新自由主義、反資本
主義、どれも反がつくものは、相手に依存しているのでだめなのです。

 実践的社会形成運動としての新自由主義について一言付け加えると、民
営化路線は、効率性を正当化根拠にしており、私的な物の公共性を却って
露出してしまいます。フリードマンの素敵な私有主義が逆説的にですが、
かえって資本の公共性を露出するように。私有による正当化という基本に
かわっておこなう隠蔽工作は、全部失敗に終ります。これを自覚にもたら
すのが、理論でしょう。