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 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
 神山さんは“[ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA Hirosi)”
(1999/07/22,16:31)の中で次のように述べています。──

>新自由主義は、古典派経済学
>が生産力発展を使命にした点で、人類の幸福の味方だ、といえるのと同様
>、「進歩的」だということは、今井さんのおっしゃるとおり「当たり前」
>ですよね。これに対し、これ以前の批判派たちは、疎外の直感において価
>値があり、俗流経済学の予定調和的世界はこれの裏返しで俗物的である。

 この点についてですが,新自由主義が古典派がそうであるのと同様に“進歩
的”であるという点については,俺はちょっと違う考えを持っています。もし
かしたら俺の考えと神山さんの考えとは余り違わないのかもしれませんが,な
かなか論争状況にならないようですし,古典派の評価は現代の社会的意識形態
の評価に関わる問題ですから,敢えて議論を吹きかけます。
 旧自由主義にもいろいろあって,俗流経済学も古典派経済学も旧自由主義だ
と言っていいと思います。ところが,その内容は天と地ほど異なるわけです。
古典派は無媒介的な,直接的な,暴力的な仕方でではあっても,地代を利潤
に,そして利潤を剰余価値に還元したのであって,この点では資本主義の矛盾
の暴露の無自覚的な意識形態です(本人たちがそれを矛盾と感じていたのであ
ろうとあるまいとも)[*1]。物神崇拝に留まりながら,物神崇拝を打ち破る意
識。古典派が生産力発展を使命にしたのも,自由・平等・所有によってはもは
や資本主義を正当化し得なくなったという現実が背後にあったのではないでし
ょうか。別に生産力発展と蓄積進行とを提唱したということ自体が古典派の積
極的な意義なのではありません。自己の理論構造によって生産力発展と蓄積進
行とを時代の当為として提唱することができたということが古典派の積極的な
意義なのだと思います。だからこそ,古典派は,自己の内部から経済学的批判
派(中心的にはリカード派社会主義)を生み出さざるを得ず,遂にはジョーン
ズで終わりを告げなければならないわけです。俗流経済学(及び新自由主義)
とは異なって,古典派は自己の理論の内部に解体の必然性と“古典派以後”の
批判的理論の生成の必然性を孕んでいたわけです。

[*1]「このような虚偽の外観を,このような瞞着を,富
の様々な社会的エレメントが互いに対して自立化し骨化
するということを,このような,諸物象の人格化と生産
諸関係の物象化とを,このような日常生活の宗教を解消
させたということは,古典派経済学の偉大な功績である
〔……〕〔Es ist der grosse Verdienst der 
klassischen Oekonomie diesen falschen Schein, 
diesen Trug, Verselbstständigung und 
Verknöcherung der verschiednen socialen 
Elemente des Reichthums gegen einander, diese 
Personnificirung der Sachen und Versachlichung 
der Productionsverhältnisse, diese Religion 
of every day's life, aufgelöst zu haben 
[...]〕」(Hm, S.852)。

 俗流経済学の態度は,日常生活の宗教を教義化するということによって,物
神崇拝の世界に留まろうとする態度です[*1]。俗流経済学が学派として登場す
るのは古典派以降です[*2]。マルクスはそれ以前の俗流的経済思想を必ずしも
“俗流経済学”とは呼んでいません。彼らもまた,自由主義以前の社会に対し
ては,古典派と同様に“進歩的”なのではないでしょうか。──新自由主義が
旧社会主義国および旧社民諸国,旧ケインズ主義諸国に対して進歩的であるの
と同様に。

[*1]「俗流経済学は事実上,ブルジョア的な生産諸関係
に囚われたこの生産の当事者たちの諸表象を教義的に通
訳し,体系化し,弁護論化する以外にはなにをもしな
い」(S.720--721)。「現実的な生産当事者たちの日常
的表象の教師的な,多かれ少なかれ教義的な翻訳である
のにほかならない俗流経済学」(Hm, S.852)。「われ
われが批判している経済学研究者たちからは大いに区別
されるべきである俗流経済学者たちは,事実上,資本主
義的生産に囚われているこの生産の担い手たちの諸表
象,動機など──それらには,資本主義的生産がただそ
の表面的な外観においてのみ反映されている──を翻訳
しているのである。俗流経済学者たちは資本主義的生産
の担い手たちの諸表象,動機などを教義的な言葉に翻訳
するが,但し支配的な部分の立場から,資本家たちの立
場から翻訳するのであり,それ故に,率直かつ客観的に
ではなく,弁護論的に翻訳するのである〔Die 
Vulgärökonomen --- sehr zu unterscheiden 
von den ökonomischen Forschern, die wir 
kritisirt --- übersetzen in der That die 
Vorstellungen, Motive etc der in der 
capitalistischen Production befangnen Träger 
derselben, in denen sie sich nur in ihrem 
oberflächlichen Schein reflectirt. Sie 
übersetzen sie in eine doctrinäre 
Sprache, aber vom Standpunkt des herrschenden 
Theils aus, der Capitalisten, daher nicht naiv 
und objektiv, sondern apologetisch.〕」(61--63, 
Teil 4, S.1453)。

[*2]「俗流経済学の場合には,振る舞い方は〔古典派経
済学の場合とは〕全く異なる。経済学それ自身がその分
析によって自己自身の諸前提を解消させ,動揺させるよ
うになるのと同時に初めて,従ってまた経済学に対する
対立が多かれ少なかれ経済学的・ユートピア主義的・批
判的・革命的な形態で実存するようになる──と言うの
も,やはり,経済学と経済学自身から生み出された対立
との発展は,資本主義的生産に含まれている諸々の社会
的対立と諸々の階級闘争との実在的な発展と歩調を合わ
せるからである──のと同時に初めて,俗流経済学は幅
をきかせるようになる。経済学が或る程度の発展に達す
るようになって──すなわちアダムスミス以後に──初
めて,そして確固たる〔=fest〕諸形態を自己に与える
ようになって初めて,経済学の中で,現象を経済学の表
象として単に再生産するのに過ぎないというエレメン
ト,経済学の俗流的エレメントは,経済学の特殊的な叙
述として経済学から自己を分離するのである。〔……〕
〔Ganz anders verhält es sich mit der 
Vugärökonomie, die sich zugleich erst 
breit macht sobald die Oekonomie selbst durch 
ihre Analyse ihre eignen Voraussetzungen 
aufgelöst, wankend gemacht hat, also auch 
schon der Gegensatz gegen die Oekonomie in mehr 
oder minder ökonomischer, utopistischer, 
kritischer und revolutionärer Form existirt. 
Da ja die Entwicklung der politischen Oekonomie 
und des aus ihr selbst erzeugten Gegensatz 
Schritt hält mit der realen Entwicklung der 
in der capitalistischen Production enthaltnen 
gesellschaftlichen Gegensätze und 
Klassenkämpfe. Erst sobald die politische 
Oekonomie eine gewisse Breite der Entwicklung 
erlangt hat --- also nach A. Smith --- und sich 
feste Formen gegeben, scheidet sich das Element 
in ihr, das blose Reproduction der Erscheinung 
als Vorstellung von derselben, ihr 
Vulgärelement von ihr ab als besondre 
Darstellung der Oekonomie. [...] 〕」(61--63, 
Teil 4, S.1499)

 新自由主義にもいろいろあってそれぞれ区別されなければならないのでしょ
う。正直に言って,俺は,新自由主義が思想そのものとして旧自由主義とどう
異なるのか,よく解りません。ひょっとすると,前者は,取得法則転回をヨリ
深く経験しているからこそ,ヨリ積極的に矛盾を隠蔽しようとする一段と自覚
的な,ヨリ自覚的な(俗流経済学と比較して)態度なのかもしれません。この
点,もう少し詰めたいと考えています。ですが,基本的には,思想としての新
自由主義の位置付けは古典派の位置付けとは全く違っているのではないでしょ
うか。やはり新自由主義が自由主義経済を讃美し得るのは,資本主義の矛盾を
隠蔽するということによってでしょう。言ってみると,新自由主義はバカ(あ
るいは腹グロ)[*1]であるからこそ,ノー天気に社会主義批判,社民主義批
判,ケインズ主義批判をすることができたのだと思います[*2]。理論の内容そ
のものの位置付けでは,新自由主義は俗流経済学と同じように見えます[*3]。
ハッキリ言って,新自由主義の場合には,理論そのものの内部には出口はあり
ません。理論とは全く異なる現実が露呈しているということによって,破綻す
るしかありません[*4]。

[*1]ハイエクなんかどう見ても腹グロには見えません。
やはりバカなのでしょう。

[*2]この点では,あの吐き気を催すようなケインズ主義
思想だけではなく,あの吐き気を催すようなマルクス主
義思想,あの吐き気を催すような社民思想も現代社会の
中で取得法則の転回(これ自身は自覚的です)の無自覚
的な形態として,しかるべき位置が与えられるべきであ
ると考えています。要するに,これらの思想は,もし理
論としてではなく,社会的意識形態として把握されるな
らば,積極的な評価の対象になると思います。この点で
は,神山さんが──

>これ以前の批判派たちは、疎外の直感において価
>値があり、

とおっしゃるのに,全く同感です。

[*3]神山さんが,──

>新自由主義の国家に対する民間の対置は、民間そのものの権力を隠蔽する
>ので、国家に対する左翼、しかし反動ともいえます。

とおっしゃるのは,要するに俗流経済学の態度ではない
でしょうか。

[*4]新自由主義は自己の主張を一貫させようと誠実に努
力すればするほど滑稽になっていきます。今回のテキス
トである『株主総会』との関連で言うと,例えばフリー
ドマンは“企業所得なんてものはない”などとナンセン
スなことを言って資本の自立化を否定しようとしていま
す(フリードマン(1980),第33頁)。その意味では,
自由主義は徹底すれば徹底するほど,ますますそれが非
現実的になるという点で,大きな効用を生み出します。
それを通じて,これは確かに資本の自立化が既存の前提
に反するということを暴露してくれます。しかし,新し
いもの(の萌芽および発展方向)は何も生み出していま
せん。資本の自立化を否定するということによって却っ
て資本の自立化を明瞭にするという消極的な意義しかそ
こにはありません。

 但し,思想の内容そのものの位置付けでではなく,歴史的な状況の中での位
置付けでは,新自由主義は俗流経済学とは全く異なっているのです。俗流経済
学の場合には,資本主義育成のための重商主義に対する批判は既に重農学派・
古典派によって完了していたわけです。これに対して,新自由主義の場合には
ソ連・東欧社会主義,西欧社民,ケインズ主義に対する批判を一手に担わなけ
ればなりませんでした。その点で,危機意識(ソ連・東欧社会主義,西欧社民
主義,ケインズ主義)に対して,“危機は社会的に作られたのだ(自然的状態
では危機は存在しないのだ)”という形での危機意識が対抗させられなければ
ならなかったわけです。新自由主義の革新的・進歩的性格は正にこのような歴
史状況において,担わされたものだと思うのです。危機意識に対する危機意
識。その限りで,新自由主義は時代の当為を担わされたわけです。新自由主義
は,ただソ連・東欧社会主義,西欧社民主義,ケインズ主義に対する限りでの
み,進歩的だと言うことができるのだと思います。
 何言っているのかよく解らないかもしれませんが──実際にまた,俺自身,
よく解っていないのですが,──理論の内容に即して時代の当為を積極的に把
握した古典派経済学と,危機意識に対する危機意識という形で時代の当為を反
映している新自由主義とは区別しなければならないのではないかということで
す。マルクス主義批判,社民主義批判,ケインズ主義批判を取り除いてみる
と,新自由主義というのはただの俗流経済学です。

参照文献

61--63, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 
    1861--1863), In: MEGA^2 II/3
Hm, Das Kapital (Ökonomisches Manuskript 1863--1865) Drittes 
    Buch, In: MEGA^2 II/4.2
フリードマン,M∓R(1980),『選択の自由──自立社会への挑戦』,西山千
    明訳,日本経済新聞社,1980年(FREE TO CHOOSE: A Personal Statement
    の邦訳)