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 今井さん、皆さん、神山です。
 ちょっと補足です。
 今井さんが取上げた私の文章は、「古典派には悪いなあ」とおもいなが
ら、書いたんです。

 「リカードウの感傷的な反対者が主張したように、生産はそれ自体とし
ては目的ではないと主張しようとするとすれば、その人は、生産のための
生産が、人間の生産力の発展、つまり自己目的としての人間自然の富の発
展(自己目的からここまで傍点)以外にはなにも意味しないことを忘れて
いるのである。もし、シスモンディのように、個人の福祉とこの目的とを
対立させるとすれば、…。シスモンディが正当であるのは、ただ、この対
立をもみ消し(もみ消し傍点)否定する経済学者たちに対してだけである
。…その人たちは、こうした人間(人間傍点)種族の能力の発展が、たと
え最初は多数の個人や人間階級全体さえも犠牲にしてなされるにしても、
結局はこの敵対関係を切り抜けて個々の個人の発展と一致するということ
、したがって個人のより高度な発展は個人が犠牲にされる歴史的過程を通
じてのみ達せられるということ、を理解していないのである」(「1861‐
1863年草稿」『資本論草稿集』6、1981年、160〜161ページ。

 ここでは、「リカードウの感傷的な反対者」が、生産の自己目的化とい
う時代精神に反対すること、「シスモンディ」が、この目的と個人の福祉
とを対立させるが、これは「対立をもみ消す」連中に対して正当であるこ
と、をみてみます。
 両者は、もちろん、批判派です。シスモンディに対して対置されている
のは、「対立をもみ消す」おめでたい人、です。この引用の前後では、リ
カードは、科学的に冷酷だということが評価されています。理論的には、
「新自由主義」は科学ではありません。「対立をもみ消す」自由貿易論者
のようなものです。
 生産力の推進といっても、新自由主義の「合理性」「効率性」は、リカ
ードの科学的で、ある暗い予測のようなものを孕んだ理解とは異なります
。社会運動としての新自由主義的政策は、国際分業論として、おっしゃる
とおり、一国ケインズ主義、一国社会主義より進歩的です。それを新自由
主義と名づけるべきかは分りませんけれど。学者としての新自由主義者は
、単にこういう状況に乗っかっているだけで、リカードの誠実さとは異な
ります。誠実なら、マルクスやるでしょ(?)。

補足でした。