本文


 議論の最中におじゃましてすみません。自分でも何を言ってるのかよく分かっ
てないので、意味不明なばあいは無視してください。

> 「自由な自己意識」(俺の用語法では“労働する人格”,あるいは
> “類的本質”)と言うべきでしょう。これは商品の人格化とは異なって,交換
> 過程で形成されるものではありませんよね?

 このばあいの「人格」とはようするに労働能力のことだと考えてよいのでしょ
うか? よく分かりません。

 労働者は目的意識的にモノをつくりますが、(われわれの社会においては)目
的意識的に社会をつくってるわけではないですよね。社会関係を形成すべく運動
せざるをえないようなモノをつくることによって、無意識的に社会を形成してい
るというか。

 無人島の労働は社会をつくらないのであって、労働が社会を形成するためには、
生産者がある一定の社会的分業の体制のもとで働いていることが前提になります
ね。商品生産社会のもとでは、労働の社会性はモノの社会性として、(他人あて
の使用価値であるという)使用価値の社会的性格と、抽象的労働の支出としての
性格の2面で現われるわけですけども。

 広松理論を批判するばあい、ペルソナにたいする「労働する人格」の先行性と
ともに、ペルソナの世界の非完結性を言うことが必要だとおもいます。広松理論
のばあい、価値実体論で抽象的労働の対象化をマルクスが言っているのはいわば
前振り(あとで“錯視”であったことが分かるような前振り)であって、商談に
なると価値が消えてしまい、労働論というハシゴを外してペルソナの世界がひと
りでにぐるぐる回りしてしまうわけですね。