本文
神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。どうも神山さんのように広い視
野に立つのは苦手なもので,“バカな奴だ”と見捨てないで,もう少しのあい
だ細かい議論にお付き合いください。
えーと,(1)先ず,ここでの論点を確認しておきます。──論点は商品所持
者が人格であるのかどうかということです。(2)次に,この対立点に対する俺
の解答を明示しておきます。──俺の考えでは,商品所持者は交換過程に出て
きた時に既に人格です。(3)最後に,このような論点にしがみつく俺の問題意
識を明示しておきます。──相互的承認のプロセスを明確にしたいからです。
商品の人格化(またその限りで人格)だから相互的に承認することができるの
か,それとも相互的承認したから初めて商品の人格化になったのか。
それでは,上記(2)についての神山さんの見解の確認です。
>もちろん、一対一の原始的交換の場面で、法的人格の形成が、裏から見
>て、同時に、交換物の人格化です。
法的人格は相互的承認によって措定されるのですよね? そうだとすると,
神山さんの場合には,商品の人格化は相互的承認によって初めて措定される
(交換過程に登場しただけでは商品所持者はまだ商品の人格化になっていな
い)ということになります。これで,対立点がハッキリしたのではないでしょ
うか?>>ALL
では,次に,誤解の訂正を。
>> >物象が法的な人格を自己の人格化とする
>> >わけです(商品の人格化)。〔命題1〕
〔中略〕
> 命題1は、株式会社を考えると、全部既存の法的人格が、資本の役割、
>仮面に嵌りこめばいい、ことをも含んでイメージしました。
了解いたしました。これは俺の誤読だったようです。俺は上記命題の中の
「商品の人格化」という箇所に引っ掛かってしまい,「物象」=商品と考えて
しまい,上記命題は交換過程について述べられたものだと誤解していました。
でも,神山さんは実際には「商品の人格化」ではなく,資本の人格化を想定し
ていらしたのですね。どうも失礼いたしました。
それでは,いよいよ本題のコメントに入ります。
>今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
>品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
>が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
>でしょうか。
正におっしゃる通りです。
>法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
>の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
>うか。
物象の人格化であるが故。──ということではご満足頂けないでしょうね。
要するに,一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
的・独立的に行為することができる個人)であるからです。そのようなものと
して承認されていようといまいとも……。商品所持者は,相互的に承認される
前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか? そ
もそも交換過程で相互的に承認し合うことができるということ自体,自由な社
会形成主体であるということを明示していると考えたわけです(赤ん坊は人間
ですが,人格として交換過程で相互的に承認し合うことはできません)。
商品所持者は物とのクローズドな関係においては人間でしかありませんが,
オープンな交換過程ではどのように振る舞うのでしょうか? 単なる人間とし
て振る舞うのでしょうか? 商品所持者は商談する前に,先ず商談相手を捜し
ます。この時に,彼はどのように振る舞っているのでしょうか? 商品の人格
的な担い手として振る舞っているのではありませんか? それとも,商品の人
格的担い手は商品の人格化ではないのでしょうか?
[*1]これまでの議論で俺が述べていることは,マルクス
が明確にしていないことだと,俺は考えています。そし
て,俺が考えていることが,マルクスが考えていること
と同じであるのか,俺にはよく解りませんし,まぁどう
でもいいことです。問題は解釈論ではなく,システム把
握ですから……。但し,俺の問題意識はマルクスのテキ
ストから離れてはあり得ないから,一応,俺の問題意識
とマルクスのテキストとの関連を明示するのがフェアで
しょう。
(1)貨幣所持者が貨幣の人格化であるということについ
ては,マルクスはこれを明示しています。──「貨幣所
持者,または貨幣──と言うのも,いまのところ〔=貨
幣の資本への転化では〕貨幣所持者はわれわれにとって
は,経済的過程そのものにおいては単に貨幣の人格化で
あるのに過ぎないからである──〔der Geldbesitzer
--- oder das Geld, denn einstweilen ist der
erstere uns in dem ökonomischen Process
selbst nur die Personification des leztren ---〕」
(Urtext, S.91)。
(2)商品所持者については,それが商品の人格化であ
るということを明示したマルクスのテキストはありませ
ん。但し,マルクスは次のように述べています。──第
一に,『経済学批判』の移行規定:「それ〔=交換過
程〕は互いに独立的な諸個人が入り込む社会的過程であ
るが,しかし彼らがこの過程に入り込むのはただ商品所
持者としてのみである。互いに対する彼らの相互的定在
は彼らの諸商品の定在であり,こうして彼らが現れるの
は,事実上,ただ交換過程の意識的な担い手としてのみ
である〔Es ist dies[=der Austauschproceß]
gesellschaftlicher Proceß, den die von einander
unabhängigen Individuen eingehen, aber sie
gehen ihn nur ein als Waarenbesitzer; ihr
wechselseitiges Dasein für einander ist das
Dasein ihrer Waaren, und so erscheinen sie in der
That nur als bewußte Träger des
Austauschprocesses〕(Kritik, S.120)。第二に,
『資本論』の相互的承認論:「ここでは,一方の人間は
他方の人間に対してただ商品の代表者としてのみ,それ
故にまたただ商品所持者としてのみ実存する。一般に展
開の進展に連れて,われわれは,諸人格の経済的扮装は
ただ経済的諸関係の人格化であるのに過ぎず,諸人格は
この経済的諸関係の担い手として互いに相対するという
ことを見出すであろう〔Die Personen existiren hier
nur für einander als Repräsentanten von
Waare und daher als Waarenbesitzer. Wir werden
überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden,
daß die ökonomischen Charaktermasken der
Personen nur die Personifikationen der
ökonomischen Verhältnisse sind, als deren
Träger sie sich gegenübertreten〕」
(KI (2. Auflage), S.114)。移行規定では,交換過程
に「入り込む〔eingehen〕」商品所持者が「交換過程の
意識的な担い手」であると規定されているように思われ
ます。俺は,移行規定から引用されているこの「意識的
な担い手」は,相互的承認論から引用されている「相対
する」(gegenübertreten)「経済的諸関係の担い
手」と同様に「諸人格の経済的扮装」(ペルソナ!),
「経済的諸関係の人格化」であると考えるわけです。
(3)資本家が資本の人格化であり,労働者が労働力商
品の人格化であるということを明示するテキストはくさ
るほどありますが,なにしろ単純な商品流通では資本家
と労働者とは買い手(貨幣所持者)と売り手(商品所持
者)として相対するのであるから,これを引用してしま
ったらルール違反なので引用しません。但し,もし“相
互的承認によって措定される私的所有者”=“物象の人
格化”と考えてしまったら,資本の人格化とか労働力商
品の人格化とかが神山さんの理論体系においてどのよう
に位置づくのかご教示いただければ幸いです。なにし
ろ,破綻していない関係を想定する限りでは(つまり
『資本論』の貨幣の資本への転化においては),交換過
程では,資本家と労働者とは,貨幣所持者および商品所
持者という規定性で私的所有者として相互的に承認し合
うとは言っても,資本の人格化および労働の人格化とい
う規定性で私的所有者として相互的に承認し合うわけで
はないのですから……。俺の場合には,意志と意識とが
与えられた物象が既に物象の人格化ですから,当然に労
働者は労働力商品の人格化,資本家は資本の人格化とい
うことになります。
>これから市場に行く商品番人・所持者(besitzer)は、物(Ding)を支配す
>る人間(Mensch)である、これらの「物を商品として互いに関連させるため
>には」、物を自己の意思のもとに置く「人格(Person)として互いに相対
>しなければならない」と。で、「意思行為」「私的所有者としての相互承
>認」「法的関係」が、商品の媒介としてでてきます。
一応,確認しておきますと,別に交換過程の真っ只中でも,所持者と商品と
のクローズドな関係を見るならば,そこでは常に人間と物との関係が成立して
いるのですよね?[*1]。あくまでも物象の人格化というのは社会に対して公開
された(オープンな)姿態です。だから,(交換過程でのオープンな場面で
の)商品所持者=ペルソナ=社会的諸関係のアンサンブル=物象の人格化──
と俺は考えるわけです。で,神山さんの「物を自己の意思のもとに置く「人格
(Person)〔……〕」」はどこで成立しているのでしょうか? 少なくとも「物
を自己の意思のもとに置く」のは相互的承認に先行していますよね?
[*1]但し,ここでの人間というのは,あくまでも商品の
人格化としての商品所持者の素材的な側面(五感を持っ
ており,商品を手籠めにすることができるような側面)
であると,俺は考えます(人格の素材的・人間的側
面)。これに対して,交換過程における商品所持者のオ
ープンな振る舞いが考察される時には──特に,相互的
承認が規定された以降に商品所持者が取り扱われる時に
は──,主に商品所持者の社会的な側面が問題になって
いるわけです(人格の社会的・人格的側面)。例えば,
──「わが商品所持者たちは,当惑してファウストのよ
うに考え込む。始めに行いありき。だから,彼らは考え
る前に既に行動していた〔=商っていた〕のである。商
品本性〔=商品自然〕の諸法則は商品所持者の自然本能
において発現したのである〔In ihrer Verlegenheit
denken unsre Waarenbesitzer wie Faust. Im Anfang
war die That. Sie haben daher schon gehandelt,
bevor sie gedacht haben. Die Gesetze der
Waarennatur bethätigen sich im Naturinstinkt
der Waarenbesitzer〕」(KI (2. Auflage), S.115)。
>物象、人格、意
>思、法、私的所有、はワンセットで考えてました
物象と人格・意思・法・私的所有とがワンセットだというのは神山さんの主
張に即してもやや解りにくいところではありますが,いずれにせよ俺の場合に
は上の諸規定はワンセットではなく,発生的な関連にあります。誤解を避ける
ために確認しておくと,その根幹は,大雑把に言うと[*1],──
物象
↓
意志→物象の人格化としての人格(=意志と意識とが与えられた物象)
↓
意志関係・法的関係→私的所有者(=意志関係において自己を実証する人格)
ということです。
[*1]俺は“[ism-study.15] Re^2: On the "Person"
etc.”(1999/08/02 11:57)の中で,私的所有者と抽象
的・形式的人格と法的人格とを区別しましたが,ここで
は,まぁ,どうでもいいこととしてこれを捨象します。
何故ならば,神山さんと俺との基本的な対立点は,意志
と意識とが与えられた商品である商品所持者が物象の人
格化であるのかどうかということにあるからです。
その場合にポイントになるのは,何故に商品所持者たちは人格として相互的
に承認することができるのか,人格であるからなのか,そうではないのか,と
いうことなのです。(神山さんは俺が問題にしていることなど重々ご承知のこ
とと思います。ですが,繰り返しになりますが,こういう問題に余り詳しくな
い方もいらっしゃるかもしれませんので何度でも確認いたします。お許しくだ
さい>>神山さん)。
>単なる仮面、操り人形ではないんですね。
仮面だけれども操り人形ではないということでしょうか。だって,仮面をか
ぶっているのは──そして自由意志で仮面をかぶる決意をしたのは──自分自
身なのだから。
>経済的扮装は、重要ですね。私は、物象の媒介の必然的な位置価におかれ
>たものというふうにおもってます。
おっしゃる通り,重要だと思います。言葉の使い方のつまらない違いで議論
がすれ違ってしまうのはよくないので,俺の用語法を明示しておきます。俺の
用語法では,「経済的扮装」はすなわちペルソナであり,交換過程に現れた商
品所持者・貨幣所持者のことです。で,上に述べたように,商品所持者・貨幣
所持者は交換過程(=オープンな社会)に出てきた瞬間に既に物象の人格化な
のです。
ここがちょっと俺と神山さんとで違うところなのではないでしょうか。恐ら
く神山さんにとっては,まだ法的ではないような経済的な扮装はまだ物象の人
格化としての人格ではないのだと思います。
「物象の媒介」というのは人格的な媒介のことですよね? それならば,こ
の「位置価」というのも俺と神山さんとの間でちょっと違うのかもしれませ
ん。俺の場合には,相互的承認するべき人格──相互的承認によって措定され
た人格ではなく──という「位置価」なのです。
参照文献
KI (2. Auflage), Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie.
Erster Band. Hamburg 1872, In: MEGA^2 II/6.
Kritik, Zur Kritik der politischen Ökonomie. Erstes Heft,
Ökonomische Manuskripte und Schriften 1858--1861, In: MEGA^2
II/2.
Urtext, Zur Kritik der politischen Ökonomie. Urtext,
Ökonomische Manuskripte und Schriften 1858--1861, In: MEGA^2
II/2.