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 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。神山さん,論点を整理してくだ
さり,ありがとうございます。取り敢えず,神山さんからの質問にお答えいた
します。

1.第一の質問に対する回答

 先ずは第一の質問から。

>物を支配する人間が物象に突き動かされ物象の五感となっている疎外・
>顛倒。ここに今井さんは、物象の人格化と人格としての能動性の成立を見
>るといってよろしいでしょうか。

 えーと,もう一度『経済学批判』の移行規定を引用しておきます。──

「それ〔=交換過程〕は互いに独立的な諸個人が入り込む社会的過程である
が,しかし彼らがこの過程に入り込むのはただ商品所持者としてのみである。
互いに対する彼らの相互的定在は彼らの諸商品の定在であり,こうして彼らが
現れるのは,事実上,ただ交換過程の意識的な担い手としてのみである」
(Kritik, S.120)[*1]。

──つまり,「独立的な諸個人」が交換過程に「入り込む」(eingehen)瞬
間,すなわち彼らが「交換過程の意識的な担い手として」交換過程に「現れ
る」(erscheinen)瞬間に,俺は物象の人格化の成立を見ています。

[*1]なお,原文については,俺は“[ism-study.20] 
Re^4: On the "Person" etc .(1)”(1999/08/03日 
12:21)でこれを引用しておきましたので,そちらの方
をご覧ください。

2.第二の質問に対する回答

 次に,第二の質問に移ります。

>物象的関係に反省し、生きた人間の行為
>が物象の行為である局面に、物象の対である人格の成立または人格化を見
>る、といってよろしいでしょうか。

 (1)「物象的関係に反省」する「局面」について。うーむ,難しいですね。
何が「物象的関係に反省」するのでしょうか。申し訳ありません,俺にはちょ
っと難しいのでご勘弁を。──と言ってもお許し頂けないでしょうから,俺の
頭で解る限りでお答えいたします。
 第一に,主語に人格的関係を選択します。人格化が発生するのは,“人格的
関係が物象的関係に反省する”というのも,ちょっと,人格化を措定する発生
的な関連の表現方法としては違うのではないかと思います。
 第二に,今度は主語に物象的関係を選択します。この場合には,“物象的関
係が物象的関係に反省する──自己内反省する(in sich reflektieren)
──”局面だということになります。一般的に,そう言ってもいいと思うので
すが,そうすると,人格化の発生と物象化の進展とが同じもんになっちゃいま
す[*1]。

[*1]俺は物象化が成立する局面と人格化が成立する局面
とは異なると考えています。俺と同様に神山さんも物象
の人格化論が商品の交換過程で成立するとお考えなので
すから,神山さんにとっても物象化が成立する局面と人
格化が成立する局面とは異なるのですよね? 恐らくこ
の点ではわれわれの間に対立点はないでしょう。
 で,物象化が進展する局面と人格化が進展する局面と
も必ずしも同じではないと考えるわけです。恐らく,こ
の点でも俺と神山さんとの間には対立点はないのではな
いかと思います。
 但し,資本の人格化を視野に入れると,かなり厄介な
ことになるのです。直接的生産過程の内部での物象化・
人格化の進展が問題になりますから。マルクスはこの点
を解決していないと俺は考えています。ただ,現在この
問題を持ち出しても議論が混乱するだけでしょうから,
止めておきましょう。

 何よりもまず,物象的関係が自己内反省する局面は物象的関係そのもののの
自立化の──それ故に物象化の──局面でしょう。例えば,価値表現の回り道
における自己関連であり,例えば貨幣資本循環における資本の自己関連であ
り,例えば利潤率における自己関連[*1]でしょう。いずれも,物象の自立化
を,従ってまた物象化の進展を表す局面です。

[*1]正確には,利潤率によって成立した資本の自己内関
係における自己内反省です。──「従って,この超過分
は,利潤率から──ヘーゲル的に言うと──自己内に還
帰する限りでは,あるいは換言すると,利潤率によって
ヨリ詳しく特徴づけられる限りでは,資本が一年間ある
いは或る一定の流通期間に自己自身の価値を越えて産み
出す超過分として現れる〔Der Ueberschuß also, 
wie er, hegelsch gesprochen, sich aus der 
Profitrate in sich zurückreflectirt, oder 
anders --- der Ueberschuß, näher durch die 
Profitrate charakterisirt, erscheint also als ein 
Ueberschuß über seinen eignen Werth, den 
das Capital jährlich abwirft, oder in einer 
bestimmten Circulationsperiode erzeugt〕」(Hm, 
S.64)。

 だから,俺の規定によると,なるほど物象の人格化は物象的関係が「物象的
関係に〔自己内〕反省」する「局面」で発生するのだが,しかしそれだけでは
十分ではないということになるのでしょう。神山さんの用語法を用いて俺の考
えを言うと,“物象の人格化は物象的関係が人格という形態で自己内反省す
る”局面で発生するということになるのでしょう。
 さて,恐らく神山さんが念頭においておられるのは恐らく次の文集団である
はずです。──

「しかし,対自的に存在する資本とは資本家のことである。資本は必要だが資
本家は必要ではないと,社会主義者たちはよく口にする。その場合には,資本
は純然たる物象として現れており,生産関係として現れてはいない。生産関係
が自己内に反省しているのが正に資本家なのである。なるほど私は資本をこの
個別的な資本家から切り離し得るし,また資本は別の資本家のもとに移ってい
き得る。しかし,資本を失うと,この個別的な資本家は,資本家であるという
属性を失ってしまう。それ故に,資本は,なるほど個別的な資本家から分離さ
れ得るが,資本家というもの──そのようなものとして資本家は労働者という
ものに対峙する──からは分離され得ないのである。それと同様に,個別的な
労働者も労働の対自的存在であるということを止め得る。労働者が貨幣を相続
するということも盗むということなどもあり得る。しかし,その場合には,労
働者は労働者であるということを止めてしまう。労働者は労働者としては対自
的に存在する労働でしかないのである〔Aber das für sich seinende 
Capital ist der Capitalist. Es wird wohl von Socialisten gesagt, wir 
brauchen Capital aber nicht den Capitalisten. Dann erscheint das 
Capital als reine Sache, nicht als Productionsverhältniß, das 
in sich reflectirt eben der Capitalist ist.Ich kann das Capital wohl 
von diesem einzelnen Capitalisten scheiden und es kann auf einen 
andern übergehn. Aber indem er das Capital verliert, verliert er 
die Eigenschaft Capitalist zu sein. Das Capital ist daher wohl vom 
einzelnen Capitalisten trennbar, nicht von dem Capitalisten, der als 
solcher dem Arbeiter gegenübersteht. So kann auch der einzelne 
Arbeiter aufhören das Fürsichsein der Arbeit zu sein; er kann 
Geld erben, stehlen etc. Aber dann hört er auf Arbeiter zu sein. 
Als Arbeiter ist er nur die für sich seiende Arbeit〕」(Gr, 
Teil 1, S.223)。

──つまり,(a)資本という物象は自己内反省して資本家という人格的形態を
必然的に受け取る;(b)しかも,正に資本は物象的生産関係であるから,資本
家は,個別的な人格であるとは言っても,個別的な人格として資本家であるの
ではなく,「資本家というもの」(諸人格の関係)として資本家なのである;
(c)だから,資本家はいらねーが資本は欲しいってのはバカの幻想だ──とい
うことでしょう。
 で,上記引用文では,専ら物象の能動性(主語としての物象,主体としての
物象)に即して,“物象的関係が自己内反省する局面で物象の人格化が発生す
る”という規定を行っているのです。実際にまた,ブルジョア社会での現実的
な主体は物象なのですから,これは当然の取り扱い方でしょう。
 ただ,既に述べたように,俺は物象化が発生する局面と人格化が発生する局
面との区別を入れておかなければならないと思うのですね。物象と人格との対
立に即して規定を行う場合には,“物象的関係が人格的関係に反省する局面で
物象の人格化が発生する”と表現してもいいのではないかと思います。(もち
ろん,言うまでもなく,この場合には,“物象的関係が人格的関係に反省す
る”という規定は物象の能動性に即しては直接的に,直ちに,そっくりそのま
んま“物象的関係が自己内に反省する”という規定であるわけです)。
 そうだとすると,物象と人格との対立を念頭に置くと,寧ろ,“物象的関係
が人格的関係に反省する局面で,物象の人格化は発生する”というのが,人格
化の発生を表現するのに最も解りやすいかなぁと思います。こうすれば,「反
省」という神山さん(およびマルクス)の用語法を用いながら,俺流のやり方
で,物象化が発生する局面と人格化が発生する局面とを区別することができる
のではないかと考えた次第です。但し,正確を期するならば,既に述べたよう
に,“物象的関係が人格という形態で自己内反省する局面で,物象の人格化は
発生する”と言うべきであるのかもしれません。
 と,まぁ,こんなところでしょうか。なにも論証になっていない感覚的な言
い回しに終始して申し訳ありません。ここら辺,俺はよく解っていないので,
ご教示いただければ幸いです。
 (2)「生きた人間の行為が物象の行為である局面」について。俺の用語法で
は,“ブルジョア社会の現実的主体である物象の運動が人格の運動によって担
われなければならない局面,従って物象が既存の人格を自己の媒介的実現形態
にする局面”という風になります。「物象の行為」というのが今一つよく解り
ませんが,「生きた人間の行為が物象の行為である」と言っちゃうと,「生き
た人間の行為が物象の」運動として実現される局面(物象化の局面)を連想し
てしまい,なんか価値形態論の局面と交換過程論の局面とが,従ってまた物象
化の局面と人格化の局面とがうまく区別できないように思われます。
 (3)「物象の対である人格の成立または人格化を見る」について。俺の考え
では,上記の局面に物象の「人格化を見る」──そしてこのような疎外された
形態で人格の実現を見る──ということです。神山さんの質問文から「物象の
対である人格の成立または」という部分が消去されているということ,神山さ
んの質問文に「そしてこのような疎外された形態で人格の実現を見る」という
部分が追加されているということにご注意を。ここでは,神山さんがおっしゃ
る「成立」とは発生のことであると解釈しました。俺の考えでは,人格の発生
は物象の発生に先行するのです。もしそうでなければ,どうして人格の物象化
としての物象があり得るでしょうか。商品は人格的生産関係の物象化であり,
商品という形で物象化するべき諸人格の関係は仮象では決してありません。
──これが俺の廣松さんに対する批判点なのです。
 申し訳ありません。いずれも神山さんの問題意識からすると,些細なことな
のでしょう。ですが,俺の問題意識からすると,疎かにしてはいけないことで
すから,敢えて細かく補足しておきました。

3.第三の質問に対する回答

 最後に第三の質問です。

>物象という共同体に反省して、交換に
>先立ち、人格としての能動性が成立している、となるのでしょうか。

 “[ism-study.28] A Confirmation About Person”(1999/08/04 23:26)で
も書きましたが,ちょっと神山さんの「交換」というタームの使い方につい
て確認させてください。
 俺は“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999年8月2日 
11:57)では次のように述べています。──

>これは商品の人格化とは異なって,交換
>過程で形成されるものではありませんよね?

>商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
>化としての人格になっているのです。

>交換過程に登場する商品所持者たちが,(1)商品の人格化であ
>る

同様にまた,俺は“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”
(1999/08/03 12:21)では次のように述べています。──

>俺の考えでは,商品所持者は交換過程に出て
>きた時に既に人格です。

>商品所持者は,相互的に承認される
>前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか?

>商品所持者は物とのクローズドな関係においては人間でしかありませんが,
>オープンな交換過程ではどのように振る舞うのでしょうか?

>(交換過程でのオープンな場面で
>の)商品所持者=ペルソナ=社会的諸関係のアンサンブル=物象の人格化

>商品所持者・貨幣
>所持者は交換過程(=オープンな社会)に出てきた瞬間に既に物象の人格化な
>のです。

更に,神山さんご自身,“[ism-study.17] Re^3: On the "Person" etc.”
(1999/08/02 18:53)では次のように述べています。──

>今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
>品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
>が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
>でしょうか。

 以上の点から,神山さんが用いている「交換」は過程としての交換,交換過
程ではないということが明瞭です。そうすると,やはり,俺が
“[ism-study.28] A Confirmation About Person”(1999/08/04 23:26)で解
釈しているように,──

>「交換・承認しあう過程」の中で神山さんが「交
>換」とおっしゃっているのは恐らく商品譲渡のことだと思います。

ということになるのでしょうね。これで宜しいでしょうか?
 もしそうならば,俺の考えでは,yes,「交換に先立ち、人格としての能動
性が成立している」ということになります。物象の人格化の成立は神山さんの
「交換」に先行するだけではなく,相互的承認にも先行します。
 但し,もしその解釈に立つならば,神山さんの場合にも,「交換に先立ち、
人格としての能動性が成立している」はずなのですね。神山さんの場合には,
商品譲渡に先行する相互的承認時点[*1]で物象の人格化が成立しているはずで
すから,「交換に先立ち、人格としての能動性が成立している」という点では
俺と神山さんとの間で変わりはないと思います。対立点はその先にあり,(a)
交換(商品譲渡)に先行して相互的承認の時点で人格化が発生するのか,それ
とも(b)交換(商品譲渡)に先行して交換過程にeingehenする時点で人格化が
発生するのか──という点にあるのだと思います。

[*1]相互的承認時点というのは要するに商談時のことで
す。“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”
(1999/08/02 11:57)及び“[ism-study.20] Re^4: On 
the "Person" etc .(1)”(1999/08/03 12:21)をご覧
ください。マルクスのテキストに即しては,次の引用を
ご覧ください。──「発展した交換取引では交換者たち
は暗黙のうちに,平等な人格として,且つ彼らのそれぞ
れによって交換されるべき財の平等な所有者として相互
的に承認し合っているということを,私は商品流通の分
析の際に述べた。彼らは互いに自己の財を提供し合い,
取引について互いに合議に達する間に,既にこれを行
う」(Zu A. W.,S.377)。神山さんもよくご承知のよ
うに,相互的承認がない商品譲渡は商品譲渡ではなく,
ただのドロボーです。

参照文献

Gr, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, 
    Ökonomisches Manuskripte 1857/58, In: MEGA^2 II/1.1--1.2.
Hm, Das Kapital (Ökonomisches Manuskript 1863--1865) Drittes 
    Buch, In: MEGA^2 II/4.2
Kritik, Zur Kritik der politischen Ökonomie. Erstes Heft, 
    Ökonomische Manuskripte und Schriften 1858--1861, In: MEGA^2 
    II/2.
Zu A. W., Randglossen zu Adolph Wagners ,,Lehrbuch der politischen 
    Ökonomie``, In: MEW, Bd. 19.