本文
以下の投稿は,最初に1999/08/06の09:52にism-studyに送信されたものです
が,既に10時間以上経ってもまだ配信されていないことから,行方不明になっ
たと判断し,再投稿いたします。ひょっとすると,今後,同一文面の投稿が皆
さんのお手許に配信されるかもしれませんが,どうかその時にはご寛恕の上,
後から配信された投稿にはコメントを付けずに,こちらの投稿の方にコメント
を付けるようにしてください。宜しくお願いいたします。
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どうもなかなか他人に理解してもらえる文が書けないですね。俺の文にお付
き合いしていただいている神山さんにもご苦労をおかけしています。
1.最初の総括的質問について
>「物象というものを措定する人格」〔社会的実践主体〕は,結
>局,どう考えられることになったのでしょう
“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999年8月2日 11:57)
では,俺は次のように書いています。──
>なんで俺が物象化するべき人格と物象の人格化と
>しての人格との区別という点で神山さんにかみついているのかと言うと,どう
>にかして物象化するべき人格に類的本質(本源的な社会的関係形成主体)を,
>また人格の物象化としての人格に社会関係のアンサンブルを割り当てたいから
>なのです。また,この投稿で,なんで商品所持者としての物象の人格化と私的
>所有者としての物象の人格化との区別を主張しているのかと言うと,どうにか
>して,類的本質がわれわれの目の前に現れるプロセスを明らかにしたいからな
>のです。(どうもうまくいかなくて困っています)。
このように,「「物象というものを措定する人格」〔社会的実践主体〕は,結
局」,類的本質だと考えています。そして,類的本質は労働する人格であると考
えています。
2.質問1について
>1.新しいご投稿では,物象の人格化が,交換過程に入った瞬間
>の当事者についてなりたつ,
>とされています。
新しい投稿というのがどれであるのか不明ですが,最初から物象の人格化は
「交換過程に入った瞬間」に成立すると俺は考えています。それに反した記述
があったんでしょうか。因みに,“[ism-study.15] Re^2: On the "Person"
etc.”(1999年8月2日 11:57)では,俺は次のように書いています。──
>商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
>化としての人格になっているのです。
「生産過程からでてきた瞬間」というのは「交換過程に入り込んだ瞬間」とい
うことを意図したつもりだったんですが,もしかしたら曖昧で誤解を招きやす
い表現だったのかもしれませんね。「交換過程に入った瞬間」を明示している
一番古い俺の投稿は“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”
(1999/08/03 12:21)だと思います。そこでは,俺は次のように書いていま
す。──
>俺の考えでは,商品所持者は交換過程に出て
>きた時に既に人格です。
なお,交換過程にはいった瞬間に商品所持者が俺の一貫した主張である(つも
り)ということについては,“[ism-study.29] An Answer To 3 Questions”
(1999/08/05 9:48)で俺の投稿からの引用を纏めておきましたので,どうか
そちらの方をご覧ください。
3.質問2について
> 2.とすれば,この人格は[ism-study.6]にいうこの「物象を措
>定する人格」ではありませんね。
はい,ありません。物象の人格化として人格であり,また相互的承認を通じ
て自己がそのようなものであるということを実証するべき人格です。
4.質問3について
> 3.[ism-study.6]の「個人的な私的所有者」を〔相互承認され
>た商品所持者〕と考え、これが「物象の人格化」であるとすれば,
>それにさきだつ交換過程に入った瞬間の当事者が,実践的な,この
>人格化する「物象を措定する人格」ということになるのかもしれま
>せんが,やはりその人格も,物象の人格化である、ことになってし
>まいますよね。
第一に,「交換過程に入った瞬間の当事者が,実践的な,この人格化する
「物象を措定する人格」ということになるのかもしれません」について。なり
ません。物象によって措定された人格,物象の人格化です。
第二に,「やはりその人格も,物象の人格化である、ことになってしまいま
すよね」について。正におっしゃる通りです。この点は既に何度も確認してき
たところです。“[ism-study.29] An Answer To 3 Questions”(1999/08/05
9:48)の「2.第二の質問に対する回答」の「(3)「物象の対である人格の成立
または人格化を見る」について」において,俺が「神山さんの質問文から「物
象の対である人格の成立または」という部分が消去されているということ,神
山さんの質問文に「そしてこのような疎外された形態で人格の実現を見る」と
いう部分が追加されているということにご注意を」と申し上げているのも,交
換過程での商品所持者が労働する人格ではなく,人格の物象化であるというこ
とを強調するためにでした。その他にも,“[ism-study.15] Re^2: On the
"Person" etc.”(1999/08/02 11:57)では,俺は次のように書いていま
す。──
>そして,その
>場合の既存の人格というのが既に商品の人格化としての人格なのです。つま
>り,相互的承認による私的所有者の発生に先行して,商品の保護者あるいは商
>品所持者(Warenhüter od. Warenbesitzer)が既に商品の人格化なので
>す。
>ここでは,交換過程に登場する商品所持者たちが,(1)商品の人格化であ
>るということ,(2)正に既に人格であるからこそ,人格として相互的に承認さ
>れ得るということ,(3)それを通じて(このような回り道を通って)人格とし
>て自己を実証するということ──これらの点を,俺の主張のポイントとして確
>認しておきます。
>商品所持者としての物象の人格化
“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”(1999/08/03 12:21)
では,俺は次のように書いています。──
>だから,(交換過程でのオープンな場面で
>の)商品所持者=ペルソナ=社会的諸関係のアンサンブル=物象の人格化──
>と俺は考えるわけです。
>神山さんと俺との基本的な対立点は,意志
>と意識とが与えられた商品である商品所持者が物象の人
>格化であるのかどうかということにある
“[ism-study.31] Re: An Answer To 3 Questions”(1999/08/05 12:22)で
は,俺は次のように書いています。──
>「独立的な諸個人」が交換過程に「入り込む」(eingehen)瞬
>間,すなわち彼らが「交換過程の意識的な担い手として」交換過程に「現れ
>る」(erscheinen)瞬間に,俺は物象の人格化の成立を見ています。
以上の総ての引用において,交換過程での商品所持者について,俺が人格とい
う曖昧な[*1]表現を用いずに「物象の人格化」あるいは「物象の人格化として
の人格」という表現を用いているということに,ご留意いただければ幸いで
す。
[*1]「曖昧な」と言うのは,人格と言ってしまうと,物
象化するべき人格と物象の人格化としての人格との両者
が含まれてしまうからです。もちろん,一言で,“交換
過程における商品所持者は人格だ”と言った表現も俺の
投稿の中にはあります。その場合にも,あくまでもそこ
で今井が交換過程での商品所持者についてが“人格”と
言うのは物象の人格化のことなのだとご理解ください。
5.最後の総括的質問について
>循環論法から結局脱却できたのでしょうか。
俺は“[ism-study.6] On the "Person" etc.”(1999/07/23 7:56)の中で
次のように述べています。──
>労働の場面では,労働する
>人格と労働(力商品)の人格化との対立という形態で鋭く問題になってくるの
>ですが,単純商品流通を見ている限りでは出口がないわけです。
つまり,単純商品流通を見ている限りでは,結局のところ,「循環論法」は脱
却することはできないのです。この課題は資本の生産過程論[*1]で解決されな
ければなりません。
[*1]もちろん,広義の資本生産過程論です。つまり,
『資本論』で言うと,第1巻だけではなく,第2巻,第3
巻をも含みます。但し,類的本質の形成そのものについ
てだけ言うと,決定的に重要であるのは第1巻5章です。
それでは,単純商品流通の世界で何もしなくていいのかと言うと,もちろん
そんなことはないわけで,循環論法からの脱却への道程──つまり脱却するた
めには類的本質の形成(もちろん否定的形成,疎外された形成)が必要である
ということ──が明示されなければならないわけです。そして,発生的関連に
おいて単純商品流通を見ると,単純商品流通は転倒構造を提示するということ
によって脱却への道程を提示しているわけです。
誤解がないように,繰り返します。単純商品流通をいくら眺めたところで
「循環論法」の解決そのものはありません。いくら俺が“物象化するべき人格
は類的本質だ”と言ったところで,単純な商品流通の枠内にある限りでは,た
だの断言であるのに過ぎません。しかし,単純商品流通は,転倒構造を発生的
関連において提示するということによって,解決への道程を示すわけです。
俺の考えでは,物象化するべき人格はこの線上に位置付けられるのです。正
に,ペルソナ(物象の人格化としての人格)に先行して物象化があるというこ
とこそが,ペルソナを生み出すべきものとして物象が現実的・能動的に振る舞
っているということこそが,商品が現実的な主体であるということこそが,物
象化するべき人格,ペルソナに先行する人格を指し示しています(だって,物
象は人格の物象化であり,この物象化はペルソナに先行しているのですか
ら)。そして,正に物象の人格化としての人格が交換過程で現れているという
ことことは,物象化するべき人格が“フォイエルバッハ的な主体”でもなんで
もなく,現実に交換過程でペルソナとして,否定態で,疎外態で,転倒態で,
現れているのだということを指し示しています(だって,ペルソナは物象の人
格化であり,しかるにこの物象というのは人格の物象化なのですから)。
単純商品流通の悪無限の世界から脱却するためには,先ず最初に単純商品流
通の範囲内で(a)物象化(→物神崇拝)→人格化という発生的関連を押さえま
す;(b)物象化するべき生産関係を結んでいる人格と,物象の人格化としての
人格との区別を押さえます(ここでは区別);(c)物象の人格化がペルソナで
あるということは(俺には)自明なことであるから,物象を媒介にして,ペル
ソナとペルソナではない人格との現実化関連(現実性剥奪としての現実化関
連)を押さえます(ここでは関連);こうして,(d)物象の人格化としての人
格が,結局のところ,物象化するべき生産関係を結んでいる人格の疎外態,
転倒の転倒(第一の転倒が物象化,第二の転倒が人格化)であるということを
押さえます;こうして,(e)脱却への道(関係において物象化し,これを通じ
てペルソナとして現れるべき人格)をハッキリさせておきます。──単純商品
流通では,ここで,終わりです。
上の段落では,「ペルソナではない人格」とか「ペルソナとして現れる人
格」とか言っていますが,類的本質とも労働する人格とも一言も言っていない
ということにご留意ください。単純な商品流通はここで終わりなのです。単純
な商品流通は疎外の機能的な関連が構造的に現れてはいますが,疎外の発生根
拠は現れていないのです。もう一度,“[ism-study.6] On the "Person"
etc.”(1999/07/23 7:56)を引用して,繰り返します。──「単純商品流通
を見ている限りでは出口がないわけです」。但し,単純商品流通は,どこにも
出口がないということを明示するのではなく,単純商品流通ではないところに
(資本の生産過程に)出口があるということを明示します。
単純商品流通に対して,超越的に生産過程を対置するわけではないのです。
単純商品流通そのものが,“出口を知りたかったら,俺のところではなく,資
本の生産過程に行ってごらん”ということを指し示しているのです。
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なお,質問1と質問3とについては,神山さんが“[ism-study.17] Re^3: On
the "Person" etc.”(1999/08/02 18:53)で提出した質問に対して,俺が
“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”(1999/08/03 12:21)
で,──
>>今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
>>品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
>>が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
>>でしょうか。
>
> 正におっしゃる通りです。
とお答えした時に,われわれの間では確認が済んだと考えていました。その後
で,俺の叙述の未熟さ故に,議論が錯綜してしまったのでしょうね。