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皆さん、今日は。神山です。
今井さん、大量の労作ありがとうございます。
全体の順序に沿ってコメントさせていただく余裕がないので、私の強調点だけ述べてみ
ます。お互いの問題意識、文脈、強調点の違いが、論議のすれ違いをもたらしているよう
ですから。個々のご質問すべてに直接お答えすべきところですが、お許しください。
> 一言で言うと,人格とは,俺の場合には相互的に承認する(それ故に相互的承
> 認の前に形成され,その資格で相手を承認する)主体(相互的承認を措定する
> 主体),神山さんの場合には相互的に承認した(あるいは相互的承認と同時に
> 発生している)主体(相互的承認によって措定された主体)のことである。
> ──これが神山さんと俺との間で最も鋭い対立をなす点でしょう。
人間Menschに対して、社会的な反省規定におけるその規定性、承認性を人格Personとす
ると、私は強調しましたが、今井説との対立を強く打出すためでした。ただ、私の論議も
最初は、承認性、社会関係を形成する、人格的本質、人格的能力も、実現された人格性も
、どちらも、人格という言葉で表してもいいと考えてました。人格という言葉を、その時
々の文脈で緩やかな使い方をしてましたので、今井さんと、自分自身を混乱させたようで
す。
> >かなり一般的。人格とは、自由な自己意識ということ。
「自由な自己意識」という言葉も、人間本質の在り方、労働する人間、人間の媒介的本
質と媒介関係の実現との統一、というように「かなり一般的」につかったわけです。とく
に、近代では、対象(普遍性)から疎外された、しかし疎外によって自由になった、抽象
的な自由な主体のことです。生産共同体から解放された、抽象的な個人、関係行為(相互
承認行為)において人格として振舞う法的人格、また、対象すべてを否定しうる近代の哲
学的自我を、念頭においています。
今井さんの精緻な考察が、今一つ私に分りにくいのは、おそらく、人格化という用語へ
のこだわりがまだ私に十分理解できていないからです。
> [*4]"[ism-study.33] Re^2: A Confirmation About
> Person"(1999/08/05 17:53)の中で,相互的承認が
> ──単に認識的なものであるだけではなく──現実的な
> ものでもあるということを,俺は強調しています。
広松に対して、自由な人格性が対象における実在であることが欠落していることを、今
井さんも批判なさるわけですが、今井説では、人格論が中心で、広松に労働論が不在であ
ることは、正面きっては展開されておらず、それが分りにくいところなのかなと思います
。
私は、承認の能力(人間の社会的能力)を人格や人格的本質・社会的性質と呼ぼうと、
承認された自己規定を人格や実現された人格性と呼ぼうと、事態は変らないと考えます。
個に内在する関係形成能力と関係内在性と、関係という条件における対他的な規定とを、
人格として捉えてもかまわないとは思います。人間の類的能力、自然の人間的本質、人間
の自然的本質、人間の形態規定性、労働する存在、人格的関係行為を行う存在、これらを
人格を呼ぼうと呼ぶまいと、用語の問題でしょう。
> 人格[*7]が「その現実性においては」社会的諸関係のアンサンブルであると
> いうことは,俺も全く否定しないのです。
> [*7]なお,マルクスのテキストにおいては主語は人格で
> はなく,「人間的本質」になっています。テキストの訳
> 文・原文については,"[ism-study.15] Re^2: On the
> "Person" etc."(1999/08/02 11:57)をご覧くださ
> い。結局のところ,突き詰めて考えると,この「人間的
> 本質」とは類的本質のことであると,俺は解釈していま
> す。これに対して,人格という概念は,類的本質(社会
> を形成する主体)とアンサンブルまたはペルソナ(社会
> によって形成された主体)との──物象化するべき人格
> と物象の人格化としての人格との──両者を包含してい
> るわけです。
類的本質、人間的本質、労働する個人、合目的的な自己媒介する主体性、無限性運動(
区別なき区別・生命)の対自化された姿、これらを、人格と名づけても、名づけなくても
、自己矛盾しうる発生点が把握されていれば、同じことでしょう。広松批判としても、こ
の人間本質の、矛盾、疎外、がおさえてあればよいのではありませんか(もちろん人格論
として行うことはよいことだと思われますが)。
ちなみに、私が、人格を関係に反省したものと述べても、別に、関係主義的に関係に拘
束された結節点という意味で言っているわけではありません。人格が主体概念であること
はいうまでもないことです。
> このように,厳密に言うと,人格は単なる社会形成主体
> ではなく,自己の行為として社会を形成する自覚的な個
> 人のことです。
とおっしゃることと私の理解は重なります。
今井さんが、
> 資本という形態においては生産手段が労働者を搾取するものとして人格的
> (=自己的・主体的・能動的)に振る舞っているということ(=主体化)を表
> 現するものです。
と述べられているように、人格化は、主体化という意味でも使われています。人格の物象
化と物象の人格化も、主体の客体化、客体の主体化、生産と消費の循環構造、という意味
で使われている個所もあったはずです(今手元にテキストがないので、なければごめんな
さい)。
用語法・定義の問題に拘って、議論が不生産的になるのを恐れますので、いわれている
、発生連関、内容に即して、議論の調整をしてみたいと思います。
商品生産において、生産の人格的関係が、否定され、物象が主体化する関係として実現
し、人格関係そのものは、交換関係に疎外され、疎外されることで、生産から分離した人
格関係が成立している、と(今井さんと全く同じか分りませんが)私も考えます。
> われわれの目の前にある現代的な社会的システムの発生においては──そし
> て『資本論』の交換過程論ではこの発生が問題になっているわけです──,生
> 産過程では,類的な本質は疎外された形態で(類からの自己の疎外という形態
> で)形成されていますが,相互的承認はいかなる意味でも行われません。この
> ような発生においては,(神山さんにも同意していただけるはずですが)相互
> 的承認は専ら交換過程で行われるしかないと思うのです。もし相互的承認が部
> 分的に生産過程にも導入されるならば,それはシステムの発生の過程において
> ではなく,システムそのものの自己止揚の過程においてであると,俺は考えま
> す。もし相互的承認が全面的に生産過程に導入されているならば,既に現代的
> な社会的システムは消滅してしまっていると,俺は考えます。
そのとおりでしょう。
賃金労働としての疎外された労働は、自己労働という在り方の放棄で、この労働を自己
労働にしている生産者の労働、私的労働が、疎外された労働の抽象的な形態です。私的労
働は、相互に孤立しあい、人格的労働として妥当しません。非人格、つまり物象が関係形
成の能動性になります。私的労働主体は、生産において、関係がありません。自己を人格
として規定できません。承認能力の潜在的持主たちは、承認の関係を生産では、つくれま
せん(これを人格があるけどないといってもいいかもしれません)。しかし、交換運動と
して、関係を形成します。生産の社会性は、物象の交換必然性に担われます。承認の関係
は交換がつくります。生産関係が物象的能動性に委ねられる⇒物神崇拝的に認知する⇒交
換・法的人格。
私的諸労働は、労働においては、人格的につながらず、交換において、孤立した個人が
人格的につながりあうというしかたを、たてます。
私的諸労働とは、生産共同体がない、生産の共同意思的媒介がないということ、という
こと、生産において人格性が否定されていること、です。人格性をたてるのは、唯一交換
です。交換が、孤立した個人の、共同意思、共同体をたてます。生産共同体を喪失した反
面が、法的人格です。
>神山さんの場合には,"少なくとも交換過程の内部で
> は,人格は社会的諸関係のアンサンブルの相互的関連の中に留まり続けるので
> あって,社会的諸関係を発生的に形成する主体ではない"ということになると
> 思うのですが,いかがでしょうか?
交換過程の法的人格は、社会的諸関係でしかないもの、ではありません。自己規定であ
って、自由な主体です。
>物象化を媒介にして,物象
> 化するべき人格も,相互的承認において,人格としての自己を実証していると
> いうことになります。
ただし、労働から疎外されており、労働も、人格関係を労働において形成しますが(協
業)、物象的関係においては、主体ではなく、ただのモノです。人格的労働は、私的労働
として、自己疎外的であり、人格性と、社会的労働とを分裂させます。分裂によって、ま
た、労働する人間存在の、個別性の項(法的人格)と、普遍性の項(社会的生産)とが、
明確に分岐するのです。どちらの項も、労働存在の、疎外し合う両極です。抽象的に解放
された個別性が法的人格であり、その反面が、物象的に媒介される社会的労働です。法的
人格のなかでは、社会的労働が排除され、社会的労働のなかでは、法的人格が排除され、
しかし、社会的労働が展開し、法的人格に対して、社会的労働の力が対峙し、社会的労働
において、人格性の全面的な実現の必要がリアルになっていきます。
法的人格は、物象的関係の媒体にすぎないものではなく、物象を制御する原理です。物
象は人格の客体だから、人格は物象の主人だから、です。自由な法的人格と物象との矛盾
が問題です。生産を含まない法的人格の形式性、法的人格と媒介されず人格の否定=物象
の自立性として媒介される社会的生産、という1つの疎遠な分離したありようが問題です
。株式会社では、自由な人格とは、株主だけでない!、労働世界の公共性は、全面的な人
格的承認を持たない!。株主、従業員、あらゆる人格に対して、物象が対立している!こ
ういう問題として出てくるわけです。商品生産・私的生産の場合、私的生産者の振舞いが
、物象的運動を媒介します。私的主体という矛盾が社会・関係の物象化として媒介されま
す。株主も、経営者も、すべての私的主体に対して、関係が自立的です。
私的所有者は、抽象的な関係です。つまり、自分で前提をたてて、全体を包摂するよう
なものではなく、自分の外に自分の根拠があります。物象の側は、生産を含んでおり、社
会関係を自分の媒介としてたてていきます。私的所有者の関係に内容を与えるのは、資本
です。私的所有者は、資本(物象)に与えれらた役割を演じます。相互承認のラベルで、
これはあなたのものでない、と他人を締出す契機、契約して交換する契機。資本の自己増
殖が、私的所有者を制限としてしまうと、その突破の形態を措定するわけです(信用、株
式会社、土地所有)。私のこんな問題意識からすると今のところ、交換において、私的生
産の媒介が交換で、私的生産という生産共同体喪失の反面が法的人格、法的人格と物象と
の矛盾の展開、私的主体の社会的媒介の展開、という以上のことはあまり考えていないの
です。また、所持者を人格化と呼ぼうと、所有者を人格化と呼ぼうと、それも内容に即し
て理解されればいいことのようにおもわれます。