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今井さん、ISMの皆さん、今日は。神山です。夏季休業で間があいてご無沙
汰しておりました。
人格論の私の最新版を簡潔に提出いたしたいとおもいますので、皆さん、
ディスクの塵などとおもわず、受取ってくだされば幸です。今までの議論を私
なりに調整したつもりです。
なお、煩瑣になるので、以下では、です・ます調は使わないことにします。
Versachlichung der Personen について
0.人格は、マルクスの骨格に位置する対象である。
ヘーゲル所有論を引継いで、マルクスの中心テーマである。
1.所有と人格(物神性と交換過程)
図
物神性
1個の商品(価値・使用価値)
物Ding ←持つhaben ←人間Mensch
交換過程 相手を探す1個の商品(2個の商品の交換=実在化に向う)
所持Besitz← 人間Mensch
1)人格Person(Sacheを客体)
2個の商品の交換=実在化の実現(価値・使用価値の実現)に際し
所有Eigentum← 2)人格Person
「普遍的なものが絶対に数多のアトムに分散し、こうして精神としては死滅
しているが、このときには普遍的なものはそこにおいてすべての人々が各々の
人々として、即ち諸人格として妥当するところの平等というものである」(精
神現象学、金子訳、777)。
「この承認されてあることが自我の実体性であるが、この実体性は抽象的な
普遍である」(778)。
「人格は自分を自分から区別することによって、誰か他の人格と関係す
る。…双方がたがいに定在をもつのは、所有主である限りのことである」(法
哲学、三浦和男訳、第40節)。
「個人は承認されて『法の前で平等な人格』となる。…個人の個(体)性は
具体的な関係を欠いたまったく抽象的なもの」「人格は生身の人間ではな
い。…個人、個性をもたない人格という『抽象的な普遍』の部分」(加藤編著
『ヘーゲル精神現象学入門』182)。「抽象的な人格と所有権という形で個人
の存在が公共的に承認されている」(181)
人格1)は、すでにアトムとしての人格である。「精神」=共同体は解体さ
れ存在していない。孤立し合うアトムとしての個人が、普遍性であり、実体で
ある。この個人は、生身の個人全体でなく、人格の平等という共通性におい
て、普遍的である。
共同体が解体されているという社会的生産の在り方、社会関係において、人
間は、関係的であり、抽象的な人格、1)である。Menschは、孤立化という規
定において、すでに人格である。この点、物神性の人間も、私的生産する、人
格である。
1)はそれ自身としては存在せず、2)を含む。1)は、2)を前提している。
軌道づけられている。1)は、2)に推移する。1)は2)になるべき位置に置か
れている。
共同体が解体されて、人間は、抽象化され、人格、1)2)である。
2)は1)の実現である。平等という規定は、単なる等価交換という物象的運
動でなく、人格としての承認により存立する。承認されなければ意味をなさな
い。承認によって人格は実体を獲得する。人格の実体は、承認である。1)は
2)において「として」承認され、2)は人格の「定在」、承認された人格、現
実態としての人格、優れた意味における人格としての人格である。
答は出ているが、ここで疑問を創ってみる。1)はどういう意味で人格なの
か。
(1)物象の人格化だからである。すでに関係によって規定されているので
ある。では、この物象を措定する人格は、何なのか。
(2)人格とは、人間の対他性だからである。相互承認しうる能力として人
格なのである。この能力自体承認されたものに即座に転換する。
一般的に、人格は、1)’人格的能力としての人格、他者に反省して自己規
定する労働の本質力である。人格は、動物(生命一般)に対しての合目的的労
働の特質である。2)’人格は他の人格という前提をもつ。定在としての人格
は、他者に反省して自己規定した人格である。承認された人格としての人格。
商品交換の人格は、交換という労働の自己疎外において、成立つ。私的生産
は、完全な孤立だから、生産そのものにおいては、2)’はないのだから、
1)’も存立し得ない。しかし、人間労働である以上、人格として存立し媒介
される。それが、交換における存立なのである。交換を立てる私的生産におい
ては、人格は否定され、生産から分離した交換において人格が成立つ。労働
は、その人格を生産においてでなく、交換において実証する。私的に孤立しあ
い、かつ社会的に依存しあう労働は、その存立を、関係の必然性を商品に、私
的行為者をその持主に、と振分けた媒介構造においてなりたたせしめる。人間
は、孤立し、孤立を人格的に承認しあう主体という位置に置かれている。
労働の自己矛盾において人格は実在的である。
整理しなおそう。私的労働という商品世界の発生点において、人格は在るの
か?
2.人格関係はない。
私的労働の主体どうしは、私的、つまり、孤立的かつ排他的である。共同体
を想定せず、共同体の共同意思を介したメンバーとしての承認を持ち合わせて
いない。人格として向合ってはいない。
3.しかし、人格関係は労働の、人間の、必須の契機である。
人間労働は、合目的的であり、他の人間に対して、承認関係をつくりうるも
の(労働の人格的能力としての労働の人格性)であり、承認関係を介して実現
される(承認関係としての労働の人格性)。労働の社会的編成は、人間の意
思、人格関係に媒介される。私的労働が社会的労働の分枝として連結されるに
は、人格関係を要する。
4.非人格的編成。社会的生産関係の物象化。
私的労働の内部は社会的に隔離され見えない。社会的労働の編成は、交換物
の交換の連鎖の運動として、人々の意思に規制されることなく、媒介される。
5.交換における人格関係
人格関係としての連結は、私的労働内部ではなく、私的労働の間の、交換関
係においてのみ必要とされる。人格的承認は、全くの最小限の形式として成立
つ。社会的生産の自己規制としての意思は、私的所有者・私的所有物・契約と
いうスポットに限定される。これにより、法的自由が歴史上はじめて成立す
る。
6.所有の疎外。
私的労働の関係は、交換関係として実現し、私的労働は、人格として自己規
定する。私的労働は私的人格として実現し、私的人格の内容は私的労働であ
る。この局面からすれば、私的労働の物象化は、私的所有者の人格の物象化、
の中身である。私的所有者として現れる私的当事者、私的所有者という人格の
間の関係は、物象的に規制されている。私的所有者として現れる人格と人格と
の関係は、物象化された関係である。「ミル評註」にいう私的所有者からの私
的所有物の疎外、共同本質の疎外である。交換において関係は物象化されてい
る。私的生産とはすぐれて交換として実在するのである。
もちろん、念のため言っておけば、交換を自己の契機として措定するのは、
私的生産である。私的生産のシステムにおいて、交換に先立って、商品は、人
格の物象化である。
7.商品論的世界で、物象と人格とを定義しているのは、私的生産である。
Der der Ware immanente Gegensatz von Gebrauchswert und Wert, von
Privatarbeit, die sich zugleich als unmittelbar gesellschaftliche
Arbeit darstellen mus, von besondrer konkreter Arbeit, die zugleich
nur als abstrakt allgemeine Arbeit gilt, von Personifizierung der
Sache und Versachlichung der Personen - dieser immanente Widerspruch
erhalt in den Gegensatzen der Warenmetamorphose seine entwickelten
Bewegungsformen. (MEW.23,S.128)
流通手段規定における恐慌の可能性に関して、価値・使用価値、私的社会的
労働、物象の人格化と人格の物象化、と矛盾が3つ並べられてある。これらは
どういう関係にあるのか、なぜ物象化が恐慌とかかわるのか、物象の人格化が
人格の物象化より先に書いてあるのは意味があるのか、などの詮索はここでは
しない。とりあえず、物象の人格化、人格の物象化という言葉の出てくる個所
の確認だけである。
抑えておくべき事項は、この個所に先行する物神性論に述べられている、私
的生産が商品世界の根拠である、ということだけである。
8.しかし、私的所有、人格という形式と、私的労働という内容は疎遠であ
る。
この内容は、交換に疎遠に、想定されている。自己をそういう想定されたも
のとしているような、交換に実現しているような、商品の能動性に想定されて
いるような、労働の姿が、商品世界の規制原理である。
この内容は、商品世界に留まる限り、商品自身によって措定されてはいな
い。
9.商品世界の労働の人格
私的労働内部の、賃労働はここでは措定されていない。したがって、ここで
は、賃労働者の人格が物象化するとはいえない。労働する人格は、私的労働す
る人格、自己労働の当事者として現れる人格しか想定されていない。私的労働
する人格の内部の労働する人格としての賃労働者の人格は人格として効力を持
たない。労働する人格は、私的労働する人格として妥当する。
私的所有者としての人格は、資本家、労働者、株主、経営者、あらゆる人間
の受取る規定である。労働者もこの人格を受取って主体である。
10.資本として、物象は、私的生産を措定する。
直接的生産過程を資本が包摂するとどうなるか。私的生産の内部が引き摺り
出されてくる。
賃労働者は、労働力という物件として過程に入る。同時に流通では自由な人
格である。これは、私的所有者の人格の物象化か。そうである。所有物の内容
である労働力が能動的だからである。だが、労働力という物件の使用をめぐ
り、売り手、買い手の人格どうしの権利のぶつかりあいがおきる。
11.協業
協業を資本が包摂するとどうなるか。労働力の結合は、資本の物である。し
かし、労働者相互の人間関係は、私的所有者の転化形態である市民、人権主体
の関係として、認知されるので、工場内に、人権主体の公共空間があることが
部分的に承認される。工場内に国家の規制が入るわけである。
しかし、私的所有とは調整されているのではない。疎遠に社会的管理の形態
が形成されたのである。私的所有の存立は残ったままである。国家としての生
産の共同性が一定媒介されるが、流通から発生した私的所有者の人格関係と、
生産との疎遠性が、止揚されたのではない。
生産において、私的所有と調和しない、「われわれのもの」という意識、潜在
的な、労働者共同社会、共同占有、人格的関係が形成される。が、これは、資
本の正当化としての私的所有からすれば、「泥棒」である。
12.労働の人格
ここで、人格性とは、労働の人格性である、という根拠に還帰している、根
拠が措定されているのである。労働する人間存在の自由としての人格という、
真理が、疎外的に明かされているのである。
この疎外において、抽象的な自由な人格も、社会的生産も、その抽象性を、
労働する人格の契機としてシステムに止揚、統一すべきである、という当為が
なりたっている。課題が成立している。
13.賃労働の自己否定
10以下を踏まえて翻って、私的生産者の人格性の否定としての商品の運動、
物象化の根拠は、私的生産者が自分のものにしている他人の労働、賃労働にあ
る。私的生産内部での、賃労働者の自己疎外が根拠である。物象化とは、賃労
働者の人格性の否定(労働力の資本化、資本の力としての労働結合)、物象化
であったのである。
個々の労働力として、賃労働者は人格性を否定されている。
のみならず、結合労働は、潜在的に、労働者の相互の人格的結合を形成す
る。これは、資本が形成してしまう社会的な関係である。しかし、これが、資
本の力に疎外されている。
生産過程で賃労働が資本に吸収される場面からではなく、賃労働をわがもの
にしているような私的労働、疎外された労働の抽象的形態としての私的労働一
般、それに根拠づけられる商品から、そして資本へ、という展開である。賃労
働の疎外が、商品という物象化の根拠に措定されるのである。
14.物象を措定する人格
(1)「物象を措定する人格」とは、労働において自己を実現できない労働
の人格性のことである。自己否定的に、自己実現する人格のことである。生産
において人格として妥当せず、人格性を否定され、物象の運動に自己の関係を
転換する人格である。
(2)生産を措定していない商品世界では、「物象を措定する人格」は生産
内部のものとしては、想定されたものにすぎない。商品世界の「物象を措定す
る人格」とは、あえていえば、直接には、私的生産者である。商品は、自家営
業も大企業も無差別に含まれうる私的生産者一般の関係の物象化である。私的
生産内部の賃労働者は、登場できないで、労働の効力は、私的生産者のものと
して妥当している。私的労働する人格が直接には、商品世界では、物象化す
る。私的当事者の振舞いすべては物象化する(共同本質の疎外)。
(3)商品は、資本として主体化する。貨幣の自己増殖として主体化する。
(私的生産=商品のシステムは、全面的には、あらゆる対象(生産・生活諸手
段)の商品化、対象と労働する個人との分離を前提し、この前提を措定してシ
ステムである。)
貨幣の手段として貨幣の過程に置かれた再生産根拠、ここに資本という物象
的運動の根拠がある。否定されているのは、賃労働者の人格性であった(類的
本質の疎外)。
物象化するのは、労働する諸個人の形態である生産諸関係である
Personifizierung der Sachen und Versachlichung der
Produktionsverhaltnisse)。
(4)資本は自己の生産根拠として協業を獲得する。労働結合は物件の結合
である。
しかし、資本の力となる生産の関係とは、じつは、労働する人格の相互の関
係に顕在的に、転換されるべきもの、だということがあきらかになる。資本は
労働の人格性を措定するのである。
以上、です。株式会社等展開された形態の問題は、資本の自己否定性として
の、人格と物象の矛盾の展開形態ですが、今回は省略します。