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神山さん、今井さん、窪西さん、ISM研の皆さん、浅川です。
そろそろ、議論のほうも一区切りつきつつあるようなので、このあたりで、これまで
の議論を第3者的な立場から整理してみようかと思います。といっても、「人格」、
「ベンサム」、「新自由主義批判」など多岐にわたるテーマのすべてに言及すること
は僕の手に余るので、最大のテーマであった「人格」に付いて議論を整理してみよう
かと思います。
傍目八目という言葉もありますが、しかし、事情をよく知らない野次馬が横合いから
口を出して話をこじらせるというのもよくあることです。議論の参加者の皆さんはも
ちろん、その他の方も、「ここはおかしい」というところがありましたら、遠慮なく
突っ込んでください。(それから、議論の時系列的な流れを無視して内容に沿って再
構成しました。その点をお含み置きください)
今井さん([ism-study.4]);
「真の人格」=「物象というものを措定する人格」…《1》
←→「物象の人格化としての人格」…《2》
神山さん([ism-study.17]、[ism-study.50]);
「自由な実践主体一般」=「自由な自己意識」…《1》
⇒[*1]「疎外によって自由になった、抽象的な自由な主体」…《2
'》
[*1]この矢印は、《1》が《2'》に必然的に推移する
ことを意味している。(cf[ism-study.51](神)参照)
《1》…類的本質の担い手
《2》…社会的諸関係のアンサンブル(物象的連関の人格的担い手)
(《2'》…自由な主体=「自由な法的人格」→〈市民〉,〈人権主体〉)
「類的本質の担い手《1》」と「物象の人格化としての人格《2》」は、分裂し対立し
ているが、じつは同一物の二契機です。あるいは、資本主義社会での「類的本質の担
い手《1》」は、「じつは“物象の操り人形=『物象の人格化としての人格《2》』”
でしかないところの『自由な法的人格《2'》』」としてつねに立ち現れます。ところ
が、「“物象の操り人形” でしかない」と見えたその姿こそ見せかけで、労働する
諸個人だけは、同時に本物の主体=「類的本質の担い手《1》」なのです。だから、
「自由な法的人格《2'》」は、「物象の人格化としての人格《2》」に過ぎないとい
う浅い分析に留まってしまえば、広松氏とともに、物象に操られる不自由な人間しか
見出せず、社会変革の主体を見失う[*1]。
[*1] [ism-study.6] On the "Person" etc(今)
>"人格とはそもそも法的人格とし
>て通用するペルソナ(仮面)なのだ"と考えると,廣松さんのように"類的本
>質なんてのは虚構の主体なのだ"ということになってしまいます。
[ism-study.9] Re: On the "Person" etc. (神)
>広松は、自由な人格を社会という対象から追い出し、自分だけが自由な
>人格だとしているのです。これは、私的所有の捨象です。変革論としては、
>広松の嫌う当のものです。労働者は商品だが自己意識なんでござるよ、
>という疎外革命論、労働者だって人間なんだ、という人間主義、現場主義、
>無媒介な階級主体論、これがいやならルンペンによる革命(いやな社会
>だなあ)。あるいは、道徳的に主張されるだけの企業の社会的責任論。こ
>れの裏腹の生産の捨象としての自由主義。
補足すれば、広松は、浅い分析によって「物象の人格化としての人格《2》」の
抽象性・形式性を発見した途端に、「類的本質の担い手《1》」も「自由な法的
人格《2'》」も否定してしまいます。今井さんは、前者が否定されていることを特に
重大と考え、神山さんは、後者の否定の方をより深刻な問題と捉えます。
「類的本質の担い手《1》」は、資本主義社会では「物象の人格化としての人格
《2》」とならざるをえないにもかかわらず、依然として社会の産出を事実において
担ってしまっているのです[*1]。そして他方において他人に隷属することをよしとは
しない存在でもあるのです。もし、資本主義社会の「類的本質の担い手《1》」が、
「自由な法的人格《2'》」という性格を持たないとしたら、奴隷制社会の奴隷と同じ
で、新社会の形成主体、社会変革の担い手とはなりえない[*2]。
[*1] [ism-study.19] Re: On the "Person" etc.(窪)
>労働者は目的意識的にモノをつくりますが、(われわれの社会においては)
>目的意識的に社会をつくってるわけではないですよね。社会関係を形成す
>べく運動せざるをえないようなモノをつくることによって、無意識的に社会を
>形成しているというか。
[*2] [ism-study.17] Re^3: On the "Person" etc. (神)
>法的、というのは、生まれながらにして、とか、
>おきてとして、とか、という自然生的な紐帯でなく、抽象的だが、自由で、
>自覚的な社会形成行為にかかわります。賃労働者階級も、この形態を持
>たなかったら困るんです。もたなかったら始まりません(あたりまえです
>が)。自由な労働する人間の、姿として、もたなかったら、その抽象性す
>ら乗り越えられません
広松的混乱を乗り越えるためには、「類的本質の担い手《1》」「物象の人格化として
の人格《2》」「自由な法的人格《2'》」を統一的に捉えることが重要なので、今井
さんが「物象の人格化としての人格《2》」や「自由な法的人格《2'》」ばかりでな
く「類的本質の担い手《1》」をも「人格」として捉えるべきだとする理由はよく理解
できます。今井さんはさらに「類的本質の担い手《1》」と「物象の人格化としての人
格《2》」の結びつきを立ち入って展開している[*1]。
[*1][ism-study.52](今)
>人格a"−人格の物象化→"物象"−物象の人格化→"人格b"
他方、〈人格〉は、対他的な関係というのがもっとも厳密なこの概念の使い方で、社
会のメンバー間の相互承認という問題は、新社会形成を考える上でも重要なので、こ
の側面を重視する神山さんの考えも捨てがたい。(おそらく、今井さんにとっても
「自由な法的人格《2'》」は、「物象の人格化としての人格《2》」が自分自身を
「類的本質の担い手《1》」でもある者として捉えかえして、自己矛盾の自覚にいた
る際の重要な媒介契機としての意義を持つのでは?事実上の社会形成主体であること
を自覚する上で、形式的な社会形成主体であることの自覚――おそらく、この自覚は相
互承認を介してしかもたらされない―――は、前提条件となるのでは?)
今井さんにとって、〈人格〉の重要性は、〈類的本質〉言い換えれば〈本源的な社会的
関係形成主体《1》〉の重要性であり、神山さんにとっては、〈人格〉の重要性と
は、〈相互承認〉の重要性、すなわち〈自由な実践的な社会形成主体〉ただし形式的で
抽象的なそれ(《2'》)の重要性に他ならない。
今井さんが「物象はどこで人格化するか?」[*1]という問題にこだわる理由は、
〈主体的能動性〉は、否定的な形態ではあれ、はじめから労働する諸個人に備わって
いるものであることを確認するためでしょう。だから、今井さんにあっては、この「本
源的な」能動性に対置される「法的人格」の能動性は、能動性ではあっても物象に支
配されたそれ、「物象の人格化としての人格」である他はないことが強調されるので
す。反対に神山さんが、労働する諸個人の「本源的な」能動性を強調することにも、対
応して「法的人格」を「社会的諸関係のアンサンブル」として捉えることにも慎重で
ある理由は、労働する諸個人の能動性は、今のところまだ(つまり、資本主義社会で
は)否定態としてしか存在しないがゆえに、当事者の自覚にもたらされるときにはつ
ねに、法的人格(=相互承認している自己意識)の形式をとらざるをえないことを重
視するからです。どれほど、抽象的・形式的であろうと「法的人格」の能動性は、労働す
る諸個人の能動性であること、それは自覚的に社会関係を形成する能動性になりえて
いることが強調されます。
[*1]〈人格〉という言葉は、〈主体的能動性〉と〈相互承認している自
己意識〉という二つの意味を持っています。(注意!後者のほうには前者
が契機として含まれています。)となると、「物象はどこで人格化するか?」
という問いも、二つの意味を持ってしまいます。つまり、「物象はどこで自分の
身代わりとなって行動してくれる能動的主体を措定するか?」と「物象は
どこで、相互承認しあう自己意識を自己の形態として措定するか」の二つ
である。この問題を巡るお二人の議論がややかみ合っていないような印
象をもつのはそのためかもしれない。
お二人とも、「物象の人格化としての人格《2》」を単なる“物象の操り人形”としか
見ない広松を批判します。神山さんは、「物象の人格化としての人格《2》」が、同時
に「自由な法的人格《2'》」であること強調します。そのことによって、社会を形成
する能動性は,資本主義ではこの形態でしか存在しえず、だからこそ、労働する諸個
人の能動性も、この形態をとって現れるほかなく、したがって、広松が“物象の操り
人形”とみたものこそ労働する諸個人の能動性の特殊資本主義的な存在形態であるこ
とを明らかにします。これに対し、今井さんは、「物象の人格化としての人格《2》」
の発生過程を解き明かすことによって、それがじつは、労働する諸個人の能動性の否
定態であること直接指摘しようとするのです。
さて、そもそも奥村氏の著書の検討として始まったこの「人格をめぐる議論」です
が、議論が専門的なものにまで進んできたために、奥村氏の著作とどんな関係がある
のか、よくわからなくなってしまったと感じている方もあるかもしれないので、最後
にごく簡単に、その点を説明しましょう。
奥村氏は、現代資本主義の問題を法人資本主義と彼が呼ぶところの私的所有の形骸化
現象として捉えます。そこでは、真っ当にも、私的所有の〈完成〉や〈強化〉ではなく
《危機》が認識されています。ところが奥村氏は、この危機の根拠が生産過程にこそあ
り、私的所有の危機は、私的労働の危機の現れであることが理解できません。そのため
彼は、法人資本主義の諸問題を法的人格の問題、私的所有者の能動性、私的所有者の企
業支配力の問題という視角だけで取り扱おうとします。結局のところ、彼には、私的所
有者の能動性が、労働する諸個人の能動性でもあることが理解できないのです。
長いだけで、あまりわかりやすくないかもしれません。最初ということで、この辺で
お許しください。