本文


 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。神山さんには毎度毎度,俺の駄
話にお付き合いいただいて,苦労をおかけします。
 うーん,どうも俺の頭が悪すぎるせいか,神山さんの理論の解釈にますます
自信がなくなってきました。前回の解釈(ヘーゲル人格論の批判的継承)には
結構,自信があったのですが。

「1.関係」について

>「人格の実体」としての関係、について、今井さんと理解
>のずれがあるようですが、私は、実体は、形成するもので
>あって、人格は、自己の実体を獲得して、実在化する、と考
>えています。労働の人格的本質は、交換の承認によって、法
>的人格として自己の規定性を獲得し、法的人格は、社会的生
>産関係を資本として形成し、それと対話することで、抽象性
>を脱し、実在化するのです。この対話の完成が社会主義で
>す。

 神山さんの場合には,「人格の実体は、承認である」以上,人格は承認の形
態なのでしょう。そうだとすると,やはりそもそも人格というものは関係のア
ンサンブルなのだということになるように思われるのですが。
 俺の考えでは人格の「実体」は承認ではなく類的本質であるということにつ
いては,既に述べました。法的人格に即して言うと,資本主義社会ではこの
「実体」を獲得することはできないわけです。この「実体」を獲得したら法的
人格は消滅してしまいます。すなわち,俺の考えでは,資本主義の枠内では,
法的人格は実体獲得することができず,だからこそ抽象的普遍であるわけで
す。しかしまた,類的本質という実体を獲得するべきものであり,だからこそ
自己矛盾であり,自己を止揚する変革主体になるわけです。とは言っても,こ
こでは,果たして神山さんの場合に,「人格の実体は、承認である」という神
山さんご自身のお考えが神山さんの実体獲得の理論に整合的であるのかどうか
ということだけを問題にします。
 (a)「人格は、自己の実体を獲得して」と言う場合の「人格」とは法的人格
ではなく,「労働の人格的本質」を指すのですよね。そして,「労働の人格的
本質」は人格ではないのですよね(何故ならば,交換過程──労働過程から区
別される限りでのでの相互的承認の結果として措定されるわけではなく,従っ
て法的人格ではないのですから)。そうだとすると,神山さんの場合には,法
的人格は承認という「自己の実体を獲得し」ないような気がするのですが。も
し神山さんご自身が書いているように──「労働の人格的本質は、交換の承認
によって、法的人格として自己の規定性を獲得」するのであれば,そしてもし
人格が優れた意味において法的人格である(つまり「労働の人格的本質」≠人
格)ならば,「人格の実体は、承認である」ということにならないと思うので
す。(b)これに対して,「法的人格は、社会的生産関係を資本として形成し」
というのが法的人格による自己の実体の形成だと思うのですが,「社会的生産
関係を資本として形成」するということをまさか相互的承認とは呼ばないでし
ょう。従って,ここでも「人格の実体は、承認である」ということにならない
と思うのです。やはり,神山さんの理論に即しては“人格≡法的人格”という
定式──あるいはヘーゲル人格論の継承──が相応しくないような気がしま
す。寧ろ,神山さんの理論に即しては,人格とは「労働の人格的本質」であ
り,この人格=「労働の人格的本質」が交換過程での相互的承認によって法的
人格として「自己の実体を獲得」するのであり,従ってこの「人格〔=「労働
の人格的本質」〕の実体は、承認である」──と述べる方が俺にとってはまだ
対立点がすっきりするのですが。

「3.人倫」について

> 共同体的な、人格的依存においては。掟のような自然発生
>的な主体的でない意思ならざる意思、王や神の意思、個人に
>先行する共同体、という形を持った社会的生産がなりたつ。
>人格は屹立せず、個人は共同体の分肢。これも、非人格的。
>ここでの個人こそ、関係のアンサンブルにすぎない、共同体
>の手足である。労働の意思的媒介の直接態。
> 個人が個人として関係脱却的に解放されるのは近代であ
>る。人格(個別)と物象(普遍)とが分岐するのは、商品生
>産、近代である。

 これが俺と神山さんとの間で鋭く対立する点なのでしょう。資本主義的生産
に先行する共同体でも,もちろん現実的人格は「関係のアンサンブル」なので
すが,関係のアンサンブルが関係のアンサンブルとして自立化・純粋化するの
は資本主義社会においてだと,俺は考えるのです。人格的依存の関係から脱却
するということによって,人格は物象の人格化として,物象的な社会的関係の
アンサンブルとして現実化します。だから,俺の場合には,「関係脱却的に解
放される」ということによって初めて,「関係のアンサンブル」であるという
ことがクリアになるのです。類的本質から物象を媒介にして現実的人格が社会
的関係のアンサンブルとして分離されるということによって,初めて現実的人
格が社会的関係のアンサンブルとして主体化するのです。資本主義的生産に先
行する共同体では,社会的諸関係のアンサンブルとしての個々人どころか,社
会的関係そのものが主体として現れているわけです。「共同体の手足」である
限りでは,主語は共同体になってしまい,「人間的本質」──これはフォイエ
ルバッハにおいては共同体ではありませんよね──にはならないと思うので
す。だからこそ,──ここでももちろん個々人は現実性においては人格であ
り,また社会的諸関係のアンサンブルなのですが──,個々人が人格として
“妥当”するのかどうかということは偶然的です。資本主義的生産に先行する
共同体も──未熟ではあっても──自己疎外的な世界なのですが,共同体での
個々人を見ても,物象化するべき人格(これはアンサンブルではない)と物象
の人格化としての人格化(これはアンサンブル)とがごった煮になっちゃって
いて何がなんだかさっぱり解らないわけです。
 「人格(個別)と物象(普遍)とが分岐する」というのは俺の場合には人格
の物象化と物象の人格化とが「分岐する」ということを意味しています。正に
この「分岐」によってこそ,現実的人格は物象的関係の人格化として,社会的
諸関係のアンサンブルとして主体的に振る舞い得るようになるわけです。人格
の物象化と物象の人格化とが未分化である限りでは,個々人は,人格的な社会
的諸関係そのものの中に埋没してしまって,物象的な社会的諸関係のアンサン
ブルとして主体的に振る舞いにくいと俺は考えているのです。物象化と人格化
とが「分岐」して初めて,つまり物象化を媒介にして初めて,個々人は社会的
諸関係のアンサンブルとして「関係脱却的に」振る舞い得るのだと,俺は考え
ます。
 これはこれまでに何度も俺が引用してきたフォイエルバッハ・テーゼの第6
テーゼの理解とも関わっています。しつこいようですが,そこでマルクスは,
「その現実性においては,人間的本質は社会的諸関係のアンサンブルであ
る」(Thesen, S.6)と述べています。神山さんの上記引用文では,この命題
は寧ろ「共同体的な、人格的依存」にこそピッタリと当て嵌まるのだというこ
とになります。なにしろ,「ここ〔=共同体的な、人格的依存〕での個人こ
そ、関係のアンサンブルにすぎない」わけですから。
 これに対して,俺は第6テーゼを『資本論』第1巻初版序言での規定と絡めて
理解するのです(この点で神山さんとは恐らく解釈が対立するのでしょう)。
これも既に引用したところですが,もう一度引用しましょう。──「個々人は
主観的には諸関係をどんなに超越しようとも,社会的には依然として諸関係の
被造物なのである」(KI (1. Auflage), S.14)。言うまでもなく,これは資
本主義社会のことを指しています。ひょっとすると,神山さんは,フォイエル
バッハ・テーゼにおける「人間的本質」に「個々人」だけではなく,共同体も
含まれていると解釈しているのかもしれません。しかし,『資本論』第1巻初
版序言を見るとよく解るように,あくまでも主語は個々人です。まぁこれは第
1巻初版序言による第6テーゼの類推的解釈であってなんの論証にもならないの
ですが,フォイエルバッハ・テーゼの第6テーゼも資本主義社会における個人
のことを念頭に置いているのだと,俺は考えます。フォイエルバッハテーゼの
解釈には異論があるのかもしれませんが,『資本論』第1巻初版序言では,資
本主義社会での「個々人」が「諸関係の被造物」であるということ──すなわ
ち(a)「諸関係の被造物」が資本主義社会を想定しているということ,(b)「諸
関係の被造物」の主語が「個々人」(共同体ではなく)であるということ──
を,マルクス解釈として確認しておきたいと考えています。
 さてさて,ここで,マルクス解釈から離れて,俺自身の見解の提示に戻りま
す。俺の考えでは,共同体ではなく個々人が社会的諸関係のアンサンブルであ
るのは,正に,物象化と人格化とが分離したからでした。そうだとすると,
『資本論』第1巻初版序言からの上記引用文についても,「個々人は主観的
〔・主体的〕に〔……〕諸関係を〔……〕超越」するということと,「社会的
〔・客観的〕には依然として諸関係の被造物なのである」ということとはメダ
ルの表裏であるということになります。個々人の私的・主観的・人格的な振る
舞い(=関係を超越しようとする振る舞い)が諸個人の社会的・客観的・物象
的な関係被規定性から切断されているからこそ,却って逆に,諸個人の社会
的・客観的・物象的な関係被規定性が純粋に現れるのだということになりま
す。──とまぁ,神山さんとは正反対ですが,俺はこのように考えているので
す。

「4.商品論世界の構造」云々

>自己=総体=完結の突破プロセスが資本論でしょう。

 いや全く,おっしゃる通りです。ですが,資本が突破するということについ
ては多くの人がこれを認めているのです(もちろん,宇野理論──世界資本主
義論は除く──のようにこれを認めていない人たちもいます)。佐藤金三郎さ
んだってバックハウスだって,多分,これを認めるでしょう(完結した商品流
通の世界と完結を突破する資本主義的生産の世界との二層構造)。俺が問題に
しているのは,単純商品流通の世界が完全に完結していてそれに対していきな
り資本がの完結を突破するものとして現れるのかということなのです。既に何
度も繰り返して述べているように,俺の考えでは──とは言っても,全然,展
開することができないのですが──,“単純商品流通は自己自身の根拠を包摂
していないとは言っても,やはり疎外された世界なのだから,疎外の発生的関
連において完結の破綻を提示するのではないか。そして,これこそが貨幣の資
本への転化の問題なのではないのか”ということなのです。

「5.人格と法的人格」

>私も、今井さんの言う
>
>> 正反対のもの(物象的に社会的な生産関係を措定するもの
>と物象的に社会的な生産関係によって措定されたもの,つま
>り,一言で言うと,社会を措定するものと社会によって措定
>されたもの)が"一つのもの"(どちらも人格)であるという
>ことを前提しています。
>[50]
>
>とおなじく類的存在の有り様を考えているのです。

 うーん,神山さんの場合には,法的人格と類的本質は全く別ものであり,前
者は人格,後者は人格ならざるものである──このように俺は解釈していたの
ですが。これに対して,俺の理論的なポイントは,あくまでも類的本質も物象
の人格化としての人格も法的人格も“一つのもの”であるという点にあるので
す。だからこそ,人格は類的本質として生産過程において自己否定的に措定さ
れるのです;商品所持者は交換過程に出てきた瞬間に既に人格なのです;相互
的承認はこの人格が行う自己の現実化──但し自己疎外的な現実化──なので
す。だからこそまた,現実的人格は自己矛盾を意識するのです。

>交換で発生した人格が、生産で否定される
>ことではありません。交換における発生を問題としているの
>ですから。

 おっしゃる通りです。“[ism-study.52] Re^2: Questions About 
"Person"”(1999/09/05 22:22)における──

> 神山さんの場合にも,「生産において人格性が否定されている」のでしょう
>が,

で始まる段落,および次の段落は“[ism-study.50] Re: Questions About 
"Person"”(1999/08/21 18:28)における神山さんの──

>私的諸労働とは、生産共同体がない、生産の共同意思的媒介がないということ、という
>こと、生産において人格性が否定されていること、です。

に対するコメントとしては誤りでした。取り消します。

>交換は労働の分枝なの
>です。

 了解いたしました。これは俺の不注意でした。それでは次のように言い換え
ましょう。──神山さんの場合には,労働の分肢としての交換においては人格
はあるが,交換から区別される労働そのものにおいては人格はないからない
(全くない)のだ,と。

>人格論は労働論の契機です。

 うーん,既に述べたように,俺の場合には「人格論は労働論の契機です」。
これに対して,神山さんはヘーゲルを批判的に継承して人格論を私的所有論と
して展開しようとしているのでは? もし,神山さんの場合に「人格論は労働
論の契機で」あるならば,──

>今井説では、人格論が中心で、広松に労働論が不在であ
>ることは、正面きっては展開されておらず、それが分りにくいところなのかなと思います
>。

という俺に対する批判は無意味になってしまうような気がするのです。だっ
て,ここでは,神山さんご自身が「人格論」と「労働論」とを別々の問題領域
として区別してしまっているのですから。これに対して,俺は──固有人格論
の問題領域を認めながらも──人格論は類的本質論に,従ってまた労働論に基
づかなければならないとコメントしているわけです。
 もし『資本論』体系は労働論の展開であるという意味で神山さんが「労働
論」という用語を用いているのであれば,これはもう,おっしゃる通りです。
なんの異論もありません。但し,もしそのように「労働論」が広義に用いられ
るならば,そもそも人格論などという独自の「論」も消え去っています。

>生産において労働者が予め人格性を形成するので
>なく、それは、資本が措定するものです。[51]で私が「還
>帰」として捉えたところをご覧ください。労働の即自的人格
>本質⇒交換の人格発生⇒労働者の人格性。

 第一に,この「資本が措定する」というのは,相互的承認によって措定する
のではないような気がするのですが。と言うのも,「労働者の人格性」が承認
されてしまうと,共産主義になっているような気がするからなのです。もしそ
うであるならば,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About 
Person”(1999/08/05 23:29)の中での──

>この自己を自己として、この物を自己の物として、行動する
>のは、「人間」の契機であり、もちろんそれは、対他的関係を予定してお
>り、完結しないわけですが、承認に相関した規定が「人格」である、こう
>私は、かんがえてみているわけです。

という発言,また,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About 
Person”(1999/08/05 23:29)の中での──

>神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。

という発言と,どのような関連があるのでしょうか? 俺が神山さんの“人格
≡法的人格”という理論を批判するのも,資本の生産過程における人格形成が
承認なしに行われ,しかし──いや,だからこそ──承認を当為として成立さ
せるからなのですが。上記の二つの引用文をそのままに解釈すると,神山さん
の場合には,生産過程における人格の否定的形成は“人格以外の主体の否定的
形成”になってしまうはずなのですが。
 第二に,「労働の即自的人格本質」の発生は何故に人格発生ではないのでし
ょうか。神山さんの「還帰」なのですが,俺が“[ism-study.41] Re^4: A 
Confirmation About Person [PS][Resent]”(1999/08/06 20:50)で描いた道
程と似ているようで,結論が違う以上どこかが違うのでしょうが,どこが違う
のか,今一つすっきりしません。「還帰」である以上は,資本の生産過程から
反省してみると,前提されていた「労働の即自的人格本質」を「労働者の人格
性」として措定したのですよね。そうだとすると,資本の生産過程から反省し
てみると,「労働の即自的人格本質」=「労働者の人格性」ということになる
(正に還帰)と思うのですが。

>今井さんの、類的本質=人格、法的人格=関係のアンサン
>ブル、というわけかたのほうが、交換を労働から分離してい
>るようにおもわれます。

 いや,あのぅ,俺はそういう「わけかた」をしていないような気がするので
すが。この解釈では,法的人格が人格ではなくなってしまうような気がします
が。まぁ,俺の場合には,類的本質が自己の諸契機を自立化させるという点で
は,類的本質と法的人格とは「わけ」られていますが,法的人格が類的本質の
現象形態であるという点では類的本質と法的人格とは“一つのもの”です(だ
からこそ自己矛盾なのです)。「わけ」られたものとして現れるのか,“一つ
のもの”として現れるのかということは場面場面で違うのであって,人格の物
象化と物象の人格化(法的人格はその一形態です)との間での“人格”の区別
性を考える時には,「わけ」て考えないとしょうがないわけです。でも,この
点はお互いの考え方の相違としましょう。問題は神山さんご自身の理論におけ
る整合性です。
 既に述べているように,俺は「法的人格=関係のアンサンブル」としての人
格だと考えています(この点では,俺はヘーゲルと全く同じです。違うのは,
“法的人格≡人格”であるのか,“法的人格=人格の現象形態”であるのかと
いう点です)。法的人格に限らず,物象の人格化としての人格(俺の場合には
私的所有者としての抽象的人格だけではなく,生産過程でリアルに現れる資本
家も労働者も,商品所持者も貨幣所持者も総て物象の人格化であるということ
にご留意ください)は総て「関係のアンサンブル」だと考えています。以下の
発言を見る限りでは,神山さんもそう考えているとしか思えないのですが。
──

>法的人格は、物象の人格化で、関係に規定されたもの。

 もし「関係に規定されたもの」であれば,それは社会的諸関係のアンサンブ
ルであるような気がするのですが,それとも別の区別基準を神山さんはもって
いるのでしょうか。ひょっとすると,「関係に規定されたもの」と「関係のア
ンサンブル」とは違うものなのでしょうか。あるいはまた,ひょっとすると,
神山さんは類的本質もまた「関係のアンサンブル」なのだと考えているのでし
ょうか(確かに類的本質も物象の人格化としては「関係のアンサンブル」なの
ですが,上記の図式は関係形成と関係とが分断されて現れているということを
示しているのです)。ちょっと俺には解釈不可能です。
 「交換を労働から分離している」というのもちょっと解りにくいところで
す。現代的な社会の発生的関連では交換が労働の遥か彼方にあるという意味で
は,交換過程での法的人格の発生と労働過程での類的本質の発生とを俺は分離
しているわけであり,その限りでは確かに俺は「交換を労働から分離してい
る」と言ってもいいと思います。これに対して,法的人格が類的本質の現象形
態であるという意味では,交換過程で発生する法的人格と労働過程で発生する
類的本質を“一つのもの”として俺は把握しているわけであり,その限りでは
俺は「交換を労働から分離してい」ないと言ってもいいと思います。実際にま
た,神山さんも,例えば,“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”
(1999/09/05 19:17)の中で,──

>生産から分離した交換において人格が成立つ

と述べているときには,「分離」の場面に言及しているはずです。

>今井説も、人格a=人格b、とする

 うーん,「今井説も」と書かれていますが,神山さんにとっては,人格a
(類的本質)も人格b(物象の人格化としての人格一般──法的人格はその抽
象的実現形態──)も人格ではないのでは? 神山さんにとっては,交換過程
で承認された人格,つまり法的人格だけが人格なのでは? そうでなければ,
どうしてあんなに商品所持者が交換過程に現れただけではまだ人格ではないと
いうことに,神山さんがこだわっていたのかよく解らないのですが。どうも俺
の頭が悪いせいか,以前の投稿との関連がよく解らないのですが……。

>相互承認は、自己がする、他人に反省的な自己の規定性の
>獲得です。商売のたびに、再生産されるのですが、法的人格
>は、いったん成立したら、交換から自立化して、交換に先
>立って、諸個人が獲得済みのものとして現れるのです。貨幣
>を介した商品流通の展開において、交換に先立ち、諸個人は
>法的人格です。

 ちょっと言わんとするところを正確に掴みかねているのですが,取り敢え
ず,上記引用文は「獲得済みのもの」が「商売のたびに、再生産される」際
に,「自己規定」が行われるということを意味するのだと解釈しておきます。
「獲得済みのもの」として現れるということはもうおっしゃる通りなのです
が,法的人格が相互的承認の結果(産物)であるということには,なんの変わ
りもないと思います。で,発生的関連においては,「相互承認は、自己がす
る、他人に反省的な自己の規定性の獲得です」という部分について,神山さん
の場合には,「他人に反省的な自己の規定性」が法的人格であるのに対して,
「自己」というのは法的人格でも人格でもないのですよね。
“[ism-study.26] Re:”(1999/08/04 20:42)の中で神山さんご自身がおっし
ゃっているように,──

>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私です

というわけです。俺が問題にしているのは,正にこの点なのです。神山さんの
場合には,発生的関連において当事者が(物象の人格化としての)人格という
資格で承認するのでない(つまり人格の自己規定ではない)以上,「商売のた
びに、再生産される」場合にも当事者は(物象の人格化としての)人格という
資格で承認するのではないように思われるのです。それならば,人格が自己規
定であるというのは,神山さんに即してはおかしい──そうではなく,「商品
の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性
格」をもつ当事者(まだ人格になっていない当事者)の自己規定である──の
ではないのかと,俺は考えたのです。神山さんの場合にも俺の場合にも法的人
格は相互的承認の結果であって,その限りでは相互的承認によって規定された
ものでしょう。発生的関連においては「自己規定」する主体は法的人格ではな
いでしょう。神山さんの場合には,法的人格が「自立化して、交換に先立っ
て、諸個人が獲得済みのものとして現れる」としても,「自己規定」において
は法的人格は人格という資格においてではなく,「商品の行動として自己の行
動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」をもつ当事者とい
う資格において自己規定すると,俺は解釈したのです。「再生産」(交換の繰
り返し)においては,「自立化し」た法的人格が自己規定するのですが,法的
人格として自己規定するのではなく,「商品の行動として自己の行動をする疎
外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」をもつ当事者として自己規定
すると,俺は解釈したのです。この解釈は間違っているのでしょうか。

>しかし、今井さんも
>おっしゃるように、法的人格そのものは、ヘーゲルは低い評
>価を与えています。マルクスは、ちがうとおもいます。

 いや,根本的な問題は,ヘーゲルが“人格とは法的人格のことでしかない”
と考えているということだと,俺は思うのです(「低い評価〔を〕与えて」い
るのはこれの系論です)。とは言っても,これまでの神山さんの投稿に見られ
る神山さんの人格概念とヘーゲルの人格概念とは“人格≡法的人格”という点
で同じなのだろうと,俺は解釈していたわけです(但し「低い評価〔を〕与え
て」いるのかどうかという点で,理論の全体像においては──つまり概念の問
題を別にすると──両者は大いに異なるのでしょう)。実際にまた,
“[ism-study.58] On Hegelian Concept Of Person”(1999/09/11 04:46)の
注[*3]で俺が引用したように,どうも神山さんもヘーゲルの人格概念を継承し
ているとしか解釈され得ないのです。
 けれども,今回の投稿を見る限りでは,共産主義でも人格が残るというので
すから,“人格は抽象的普遍である”ということにはならないような気がする
のです。でも,そうだとすると,前回の投稿で,何故に神山さんがヘーゲルか
らああいうやり方で引用をしたのか,ちょっと俺には解釈不可能です。

「6.資本主義の入口と出口」

>真実態は、社会的生産を自己のものに包摂した人格、法的
>人格の抽象性を止揚した、社会的媒介を形成し終えた人間で
>す。法的人格の、自己性、社会形成性が社会的生産を自己の
>ものにした、完成した類的本質です。社会主義こそ、生き生
>きした相互承認の世界でしょう。社会主義こそ、資本(社会
>的生産)と法的人格(個人)との無媒介な統一の世界から脱
>却した、個人が自己の媒介として社会を形成し終えた社会、
>人間が自由な人格として振舞う世界でしょう。

 そうすると,「抽象的普遍」である「優れた意味における人格」は共産主義
ではなくなってしまうのでしょうか? それとも,「抽象的普遍」と「優れた
意味における人格」とは実は別物だったのでしょうか?「抽象的普遍」は間違
いなく法的人格のことでしょう。自由な個体性が「抽象的普遍」にとどまるは
ずがありませんから。ひょっとすると,これに対して,「優れた意味における
人格」は,交換過程においてであろうと,労働そのものにおいてであろうと,
あるいはゲルマン的形態のように集会においてであろうと,いずれにせよ,承
認されている人格のことなのでしょうか? そう解釈すれば,筋は通ります
し,俺の考えとも近付きます。しかし,ヘーゲルは全く逆のことを言っている
のであって,ヘーゲルからの引用はかなりミスリーディングだと思いますが。

「7.広松といわず、意識の物象化論について」

> これに対し、マルクスは、存在する自己としての労働する
>自己を介して、存在自身を知る。認識主観を存在する主観に
>転換し、認識対象を存在する対象それ自身に転換し、対象は
>存在という資格、自己という資格をもって立てられている。
> 広松は、社会を自己のものとしないと、認識対象を自己の
>ものにできない構造になっている。
> 以上を意識して、「対象」という言葉を使っています。

 うーむ,結局のところ,「対象における実在」というのは「自己という資格
をも」つような「対象における実在」ということなのでしょうか。どうも文脈
から判断する限りでは,「「対象」という言葉を使」うと,廣松理論から区別
された表現をすることができるというのが神山さんが「対象における実在」と
いう用語を使う趣旨であると解釈されます。けれども,「対象における実在」
と言うと,何故にそうなるのか,不勉強なせいで,今一つ解りません。書いて
あるところを見る限りでは,「認識主観を存在する主観に転換し、認識対象を
存在する対象それ自身に転換し、対象は存在という資格、自己という資格をも
って立てられている」というところに力点があるように思われるのですが。つ
まり対象ではなく,「存在という資格、自己という資格をも」つというところ
に力点があるように思われるのですが。廣松さんの場合にも,優れて「対象に
おける実在」──但し学知的第三者の認識主観の認識「対象における実在」
──であるわけで,「「対象」という言葉を使」うだけではどうもうまく区別
することはできないように素人考えでは思われるのです。いや,これはいちゃ
もんをつけているわけでは決してなく[*1],不勉強なために本当によく解って
いないのです。

[*1]取り敢えず,俺が用いている「おける」と神山さん
が用いている「おける」との間で意味の違いがあるとい
うことが解りましたから,神山さんの用語法の批判につ
いては,これを撤回します。つまり,神山さんがおっし
ゃるような意味で「対象における実在」と言ってもいい
と思います。なお,俺の「自己における実在」という用
語法でも廣松理論から区別された表現が可能であるわけ
ではありません。なにしろ,自己と言っても認識する自
己と存在する自己とがありますから。

          **************************************************

 と,まぁ,例によって例のごとく,かなり長文になってしまいましたが,俺
の方でも神山さんの見解に対する誤解・混乱がかなり多いのでしょう。もちろ
ん誤解するのは俺の頭が悪いからなのですが,神山さんにとっても誤解される
ということは不幸なことでしょう。そこで,差し当たって,次のa,bの二点に
ついてだけお答えいただければ,対立点がかなりすっきりするように思われま
す。
 俺は上のコメントでは,あくまでも神山さんが“人格≡法的人格”という定
式を保持しているということが仮定されています。もしこの定式が保持されて
いないのであれば,俺の上のコメントのかなりの部分は無意味なコメントにな
ります。そこで,どうしてもこの点を──神山さんご自身の用語法で──確認
しておきたいのです。どうも頭が悪いせいか,用語をきちっと明確にしていた
だけないと,俺の頭にはうまく入ってこないのです。そこで,ヘーゲルと同様
に“人格≡法的人格”という定式を神山さんが採用しているのか,教えていた
だきたいのです。

a.神山さんが行った「調整」について。

 これまでの俺の投稿からもお判りでしょうが,俺は“[ism-study.51] 
Versachlichung der Personen”(1999/09/05 19:17)の解釈に苦労したので
す。そこで,神山さんは,物象化するべき人格について,──

>「物象を措定する人格」とは、労働において自己を実現できない労働
>の人格性のことである。自己否定的に、自己実現する人格のことである。

と書いています。また,商品所持者について,──

>人格1)〔商品所持者〕は、すでにアトムとしての人格である。

>2)〔私的所有者〕は1)の実現である。

>1)は
>2)において「として」承認され、2)は人格の「定在」、承認された人格、現
>実態としての人格、優れた意味における人格としての人格である。

>1)はどういう意味で人格なの
>か。
> (1)物象の人格化だからである。すでに関係によって規定されているので
>ある。では、この物象を措定する人格は、何なのか。
> (2)人格とは、人間の対他性だからである。相互承認しうる能力として人
>格なのである。この能力自体承認されたものに即座に転換する。

と書いています。更に,今回の投稿の中では,──

>私も、今井さんの言う
>
>> 正反対のもの(物象的に社会的な生産関係を措定するもの
>と物象的に社会的な生産関係によって措定されたもの,つま
>り,一言で言うと,社会を措定するものと社会によって措定
>されたもの)が"一つのもの"(どちらも人格)であるという
>ことを前提しています。
>[50]
>
>とおなじく類的存在の有り様を考えているのです。

と書いています。正直に言って,これらの発言とこれまでの神山さんの主張と
の関連付けに苦慮したわけです。
 これまでの論争の経過を振り返ってみましょう。俺の第一の問題提起は,発
生的関連において物象化するべき人格は類的本質ではないのかということでし
た。“[ism-study.6] On the "Person" etc.”(1999/07/23 07:56)の中で俺
は次のように問題提起しています。──

>問題は,この法的人格[*1]と,最初に出てきた人格──神山さんの定義では
>「自由な自己意識」──との関連なのです。“人格とはそもそも法的人格とし
>て通用するペルソナ(仮面)なのだ”と考えると,廣松さんのように“類的本
>質なんてのは虚構の主体なのだ”ということになってしまいます。ですが,法
>的人格として通用するペルソナ(仮面)は物象の人格化でしょう。それではほ
>かならない物象とはなんのことなのかと言うと,人格の物象化だということに
>なる。それじゃぁ,一体,物象化するべき人格はどこから出てきたの? ──
>これが俺の問題意識だったのです。

 俺の第二の問題提起は商品所持者は交換過程に登場した瞬間に物象の人格化
としての人格ではないかということでした。“[ism-study.15] Re^2: On the 
"Person" etc.”(1999/08/02 11:57)の中で俺は次のように問題提起してい
ます。──

>俺の場合には,既存の人格が法的人格として妥当するのです。そして,その
>場合の既存の人格というのが既に商品の人格化としての人格なのです。つま
>り,相互的承認による私的所有者の発生に先行して,商品の保護者あるいは商
>品所持者(Warenhüter od. Warenbesitzer)が既に商品の人格化なので
>す。商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
>化としての人格になっているのです。商品所持者は,相互的に承認し合うから
>こそ人格になるのではなく,人格であるからこそ相互的に承認し得るわけで
>す。

要するに,もし類的本質が人格であり,法的人格が類的本質の現象形態である
ならば,交換過程での物象の人格化としての人格の発生についても,商品所持
者が既に人格でもいいじゃないかというわけです。つまり,俺に即しては,第
二の問題提起は第一の問題提起の系論なのです。これに対して,神山さんは,
商品所持者が交換過程に登場しただけでは物象の人格化としての人格ではない
という趣旨で,自説を展開したわけです。例えば,“[ism-study.17] Re^3: 
On the "Person" etc.”(1999/08/02 18:53)の中で,──

>これらの物象、人格、意
>思、法、私的所有、はワンセットで考えてました

> ここは私には難しいですね。
> 今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
>品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
>が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
>でしょうか。法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
>の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
>うか。

と神山さんは書いています。これに対して,俺は──

> 物象の人格化であるが故。──ということではご満足頂けないでしょうね。
>要するに,一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
>他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
>とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
>的・独立的に行為することができる個人)であるからです。そのようなものと
>して承認されていようといまいとも……。商品所持者は,相互的に承認される
>前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか? そ
>もそも交換過程で相互的に承認し合うことができるということ自体,自由な社
>会形成主体であるということを明示していると考えたわけです(赤ん坊は人間
>ですが,人格として交換過程で相互的に承認し合うことはできません)。
> 商品所持者は物とのクローズドな関係においては人間でしかありませんが,
>オープンな交換過程ではどのように振る舞うのでしょうか? 単なる人間とし
>て振る舞うのでしょうか? 商品所持者は商談する前に,先ず商談相手を捜し
>ます。この時に,彼はどのように振る舞っているのでしょうか? 商品の人格
>的な担い手として振る舞っているのではありませんか? それとも,商品の人
>格的担い手は商品の人格化ではないのでしょうか?

と,お答えしたわけです。これに対して,神山さんは,“[ism-study.26] 
Re:”(1999/08/04 20:42)の中で,──

>「実践的主体」「個別的な自覚的個体性」は、私が「自由な自己意識」・
>労働の媒介性と呼んだものに近い気がします。

とコメントしているわけです。俺が商品所持者が人格であるという理由付けと
して,「社会を形成する一般的な実践的主体」且つ「自分で責任を負うことが
できる個別的な自覚的個体性」を俺が挙げているのにも拘わらず,わざわざ
「自由な自己意識」と神山さんが言っている以上,「自由な自己意識」は人格
ではないと俺は解釈するしかありません。その他に神山さんが人格が相互的承
認の措定であるということを強調している箇所については,繰り返しになりま
すが,神山さんは“[ism-study.26] Re:”(1999/08/04 20:42)の中では──

>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私です

と述べています。また,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About 
Person”(1999/08/05 23:29)の中では,──

>この自己を自己として、この物を自己の物として、行動する
>のは、「人間」の契機であり、もちろんそれは、対他的関係を予定してお
>り、完結しないわけですが、承認に相関した規定が「人格」である、こう
>私は、かんがえてみているわけです。

同様にまた,──

>相互承認以前の、「交換過程にeingehen」する、孤立的な人間の「事実
>的」な振舞い、ここに物象の人格化、自由な人格性がある。これが(私の
>読込んだ)今井説。承認以前の事実上の人間の恣意(=「自由」)を、法
>的人格に先立つ人格とする。
> これに対して、神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。
> こんなかんじです。

同様にまた,──

>ここでは、今井さんとの対比からして、個別の意識性に対して、それを
>媒介する、産出された対他的な社会的意思を介した規定を、人格とする、
>というように限定、強調しておくのが、有益な整理になるでしょう。

と述べています。また,“[ism-study.50] Re: Questions About "Person"”
(1999/08/21 18:28)の中では,──

>人間Menschに対して、社会的な反省規定におけるその規定性、承認性を人格Personとす
>ると、私は強調しました

と述べています。このように神山さんの場合には,承認の結果が人格であっ
て,商品所持者は交換過程に登場して対他的に振る舞っているだけでは物象の
人格化としての人格ではないし,労働過程で「自己否定的に、自己実現する人
格」[*1]は人格ではないということになるはずなのです。

[*1]って労働過程(交換過程から区別される限りでの)
における自己否定的な自己実現のことですよね? そう
じゃないと,つまり交換過程(労働過程から分離して現
れる限りでの)における法的人格としての自己否定的な
自己実現のことだとすると,例によって例のごとく,循
環論法になっちゃいます。

 そこで,──

>今までの議論を私
>なりに調整したつもりです。

という発言に着目して,「今までの」の“人格≡法的人格”という考えを保持
したまま,今井にも解るように用語を「調整した」のだろうと解釈したわけで
す。実際にまた,神山さんはヘーゲルを肯定的に引用しており,ご存じのよう
にヘーゲルの人格概念は“人格≡法的人格”というものです。これによって,
俺の解釈は正当化されたと俺は考えました。しかし,今回の投稿を読むと,こ
の解釈にも自信がなくなってきます。ひょっとすると,神山さんは単に用語を
今井向けに「調整した」のではなく,ご自身の人格概念をご自身のために「調
整した」と考えるべきなのでしょうか。
 神山さんの用語において,法的人格が優れた意味での人格だということはな
んとなく解りました。そこで,類的本質は人格なのか,また商品所持者は(相
互的承認に先行して)人格なのか──この場合に,取り敢えずは,優れた意味
での人格に対して半熟人格でも未熟人格でもなんでもいいのですが──,是非
とも神山さんご自身の用語法でお答えいただきたいのです。
 もちろん,神山さんにとっては「所持者を人格化と呼ぼうと、所有者を人格
化と呼ぼうと、それも内容に即して理解されればいい」(“[ism-study.50] 
Re: Questions About "Person"”(1999/08/21 18:28))のであり,また「承
認の能力(人間の社会的能力)を人格や人格的本質・社会的性質と呼ぼうと、
承認された自己規定を人格や実現された人格性と呼ぼうと、事態は変らない」
のでしょうが,そうではあっても,神山さんご自身がどう呼ぶのか,明言して
いただけると,ありがたいのです。神山さんご自身にとっては「事態は変らな
い」のかもしれませんが,聞いている俺にとっては随分と「事態」が「変」わ
ってしまうんです。

b.ヘーゲルの人格概念を継承するのか

 これは質問aに事実上,含まれているのですが,どうも“[ism-study.51] 
Versachlichung der Personen ”(1999/09/05 19:17)での神山さんの叙述
と神山さんによるヘーゲルからの肯定的引用を素直に読む限りでは,ヘーゲル
の人格概念を神山さんが継承しようとしていると,俺は解釈せざるを得なかっ
たのです。なにしろ,人格(論)は「ヘーゲル所有論を引継いで、マルクスの
中心テーマである」という項目のもとに,“人格は精神が死滅したという条件
の下で発生する抽象的普遍としての所有者であって,承認されてあるというこ
とが人格の実体性だ”なんていうヘーゲルからの引用が続いているわけですか
ら。
 ヘーゲルの人格概念というのは,言うまでもなく,“人格とは法的人格のこ
とである。従って人格は抽象的普遍である”というものです(人格≡法的人
格)。神山さんがヘーゲルから肯定的に引用した部分はいずれもこれを明示し
ています。他の解釈はあり得ないと俺は考えているのですが,俺のこの解釈は
間違っているのでしょうか。と言うのも,神山さんは,例えば,──

>真実態は、社会的生産を自己のものに包摂した人格、法的
>人格の抽象性を止揚した、社会的媒介を形成し終えた人間で
>す。法的人格の、自己性、社会形成性が社会的生産を自己の
>ものにした、完成した類的本質です。社会主義こそ、生き生
>きした相互承認の世界でしょう。社会主義こそ、資本(社会
>的生産)と法的人格(個人)との無媒介な統一の世界から脱
>却した、個人が自己の媒介として社会を形成し終えた社会、
>人間が自由な人格として振舞う世界でしょう。

と述べているからなのです。そうだとすると,共産主義では法的人格は消滅す
るように読めるのです。法的人格に代わって「完成した類的本質」が現れるよ
うに読めるのです。で,この「完成した類的本質」こそが「自由な人格」,真
実態における人格と同義のものであるように読めるのです(このほかにもヘー
ゲル人格概念と相入れないような神山さんの記述については,この投稿のこれ
までの部分にこれを入れておきました)。そうだとすると,ヘーゲルとは随分
と違っちゃうような気がするのです。だってそうでしょう,もし「完成した類
的本質」が「自由な人格」であるというのが真実態における人格ならば,法的
人格の方はニセ人格[*1]になっちゃいます。これに対して,ヘーゲルにとって
は,人格の唯一の真実態(自己意識の真実態ではありません)は法的人格であ
るはずです。ですから,この引用文を読む限りでは,何故に神山さんがあのよ
うなヘーゲルからの引用を並べたのか,俺にはちょっと解釈不可能なのです。

[*1]もちろんこれは「完成した類的本質」と較べての話
です。神山さんの場合には,直接的には(交換過程から
区別される限りでの労働過程では)自己否定的にしか自
己形成し得ない“未完成な”類的本質に較べれば承認の
結果である分,法的人格がヨリ真実態に近いのでしょう
が,それはひとまず措いてください。

 と言うわけで,ヘーゲルの人格概念を継承するのか否か,まぁ,これも用語
の問題だとお考えなのかもしれませんが,神山さんご自身が人格という用語を
ヘーゲルと同じように使うのか否か,どうかお答えいただければ幸いです。