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書き忘れたので補足です。

今井さんのおっしゃる現実的人格、賃労働者の人格とは、具体的に何を指すのか、もう一度再確認したいのですが。
意思を生むのであれ、共通意思に反省するのであれ、意思関係に座らない人格とは、類的な、人間的な能力のことしかないとおもいますが。
類的本質が人格である、能動的な類的な人間本質である、というのなら、賛成しますが。
1人格の物象化→2物象の人格化→3人格の物象化で、1は、私的生産という、類的本質の疎外ですが、直接には賃金労働者でなく、私的当事者の社会関係の自立、を指す、3は、所有者からの所有の疎外、交換関係の物象化、という再規定、といってよいでしょうが、今井さんのおっしゃる根源的人格とは、要は、労働する個人のことでしょう?
ならば、私の論議と、そうかわらない、とおもうのですが。
また、今井さんは、
 > 俺の考えでは人格の「実体」は承認ではなく類的本質であるということにつ
> いては,既に述べました。法的人格に即して言うと,資本主義社会ではこの
> 「実体」を獲得することはできないわけです。この「実体」を獲得したら法的
> 人格は消滅してしまいます。すなわち,俺の考えでは,資本主義の枠内では,
> 法的人格は実体獲得することができず,だからこそ抽象的普遍であるわけで
> す
> で,この「完成した類的本質」こそが「自由な人格」,真
> 実態における人格と同義のものであるように読めるのです(このほかにもヘー
> ゲル人格概念と相入れないような神山さんの記述については,この投稿のこれ
> までの部分にこれを入れておきました)。
と、人格を、類的本質という実体に対する形態としています。この形態固有の規定はなにですか。意思を媒介とする、ということではないのですか。

そもそも、広松は、類的本質論を人間学的な理想像を想定するものとして、疎外論批判をしたのですが、人格論として、議論しているのですか?勉強不足な質問ですいません。

お忙しいところすみません。答えは、今までの投稿から見つかるはずでしょうが。気楽に質問ということで。