本文


 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
 先ずはお詫びと訂正です。“[ism-study.52] Re^2: Questions About 
"Person"”では,俺は不注意にも,──

>ちょっと神山さんの見解が変更さ
>れたとしか俺には思えないのです

と書いたのですが,不適切な発言なので,取り消します。失礼いたしました。
“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”(1999/09/05 19:17)の中
で神山さんは,──

>今までの議論を私
>なりに調整したつもりです。

と書いています。この文言は,神山さんがご自身の「今までの議論」を,今井
にも解るように今井の用語法に「調整した」ということを意味するのだと,俺
は解釈しておきます。神山さんの場合には,“[ism-study.50] Re: 
Questions About "Person"”(1999/08/21 18:28)で述べられているように,
もし理論内容が正しいならば,人格概念はいかようにも変更可能ですから,こ
のような「調整」も可能であるのでしょう。
 これに対して,残念ながら,俺の場合には,このような「調整」が困難なの
です。その問題意識については,不十分ながら“[ism-study.52] Re^2: 
Questions About "Person"”(1999/09/05 22:22)で書いたつもりです。そこ
で,この投稿では,以上のことを前提にして,取り敢えず,特にヘーゲルとの
関連についてのみ,神山さんの発言にコメントします。但し,ヘーゲルについ
ては俺は余り詳しくないから,神山さんを筆頭とするヘーゲルに詳しい方に批
判・訂正していただければ幸いです。

>0.人格は、マルクスの骨格に位置する対象である。
> ヘーゲル所有論を引継いで、マルクスの中心テーマである。

 うーん,「マルクスの骨格に位置する対象」としてわれわれが人格を受容す
るならば,やはり俺は,われわれにとって人格概念は非常に重要であり,従っ
てどの対象を指して人格という名辞を用いるのかということもまた非常に重要
だと思うのです。例えば,資本もわれわれにとって「骨格に位置する対象」で
しょう。俺の考えでは,石ころを資本と呼ぶのか,機械を資本と呼ぶのか,価
値の運動体として総ての契機を包摂・統括する物象的生産関係を資本と呼ぶの
か,どれを資本と呼ぶのかでやはり理論の領域も性質も大きく変わってしまう
でしょう。これと同じことが人格にも当て嵌まるように思われるのです。

>人格の実体は、承認である。

 恐らくこの点が俺と神山さん(あるいはヘーゲル)との間で異なる点なのだ
ろうと思います。俺にとっては,承認は人格の形態的な契機[*1]であって,人
格の実体は類的本質です。こう考えるということによって初めて,人格は現代
社会の変革主体としても,未来社会の現実的主体としても位置付けられるのだ
と,俺は考えます。

[*1]誤解がないように何度でも繰り返しますが,形態的
契機だからと言って“そんなもんどうでもいい,捨象し
てもいい,無視してもいい”と俺が考えているわけでは
決してないのです。ヘーゲルおよび神山さんが法的人格
を重視するのは,それ自体としては全く正当だと,俺は
考えます。もしこれがないならば,現実的に社会的諸関
係のアンサンブルとして(しかしまた自由に)振る舞っ
ている現実的な個人の運動(物象の運動そのものからは
区別される当事者行為)の解明は不可能になってしまう
でしょう。従ってまた,神山さんが強調しているよう
に,社会変革の展望も不可能になってしまうでしょう。
問題は人格≡法的人格なのか──つまり人格≡社会的諸
関係のアンサンブルなのか──ということだけなので
す。
 なお,この投稿の以下の部分では“人格≡法的人格”
という表現が現れます(≡は恒等式の記号です)。この
表現は“人格は法的人格でしかない”ということを意味
するのだと解釈してください。俺の場合にも,もちろん
法的人格は人格なのですが,“人格は法的人格でもあ
る”(人格は法的人格として現れる)ということになる
わけです。

 ヘーゲル人格論については,俺はヘーゲルを読んでいないからよく解りませ
ん(この点については神山さんにご教示いただきたいと思います)。解る範囲
内で言うと,山本広太郎さんが強調しているように,マルクス人格論とヘーゲ
ル人格論とは鋭く対立すると,俺は考えています。神山さんはよくご存じのよ
うに,『精神現象学』では,人格が俎上に上るのは法的状態において──つま
り法的人格として──です。だからこそ,ヘーゲルにとっては人格は「抽象的
普遍」でしかないもの,ペルソナでしかないもの,社会的諸関係のアンサンブ
ルでしかないものになってしまうわけです。このようなことが生じるのも,ヘ
ーゲルが人格の物象化と物象の人格化との対立軸を見ていないから
だ[*1],[*2]と,俺は考えます。要するに,人格の物象化と物象の人格化とが
ヘーゲルの場合には未分化なものであると,俺は考えるわけです。

[*1]もちろん,ヘーゲルにもご立派な自己意識論(ヘー
ゲル的な意味での類的本質論)はあるのです。しかし,
人格の物象化と物象の人格化との対立というように問題
を立てていないから,人格=自己意識ということを見抜
くことができなかったのだと思うのです。だからまた,
ヘーゲルにとって自己意識はそれ自体としては人格では
なく,法的状態において初めて,法的人格として,ペル
ソナとして,社会的諸関係のアンサンブルとしてようや
く人格になるということになるのでしょう。

[*2]これの原因がヘーゲルの理論そのものにあるのか,
それともヘーゲルが生きていた歴史的時代における資本
主義的生産の発展どにあるのか,俺にはよく解りませ
ん。人格の物象化と物象の人格化との対立は(単純な商
品流通ではなく)資本主義的な生産において初めて生き
生きとした形式で発現し得る以上,ドイツ資本主義の未
発達にその原因を求めるということも可能であるのかも
しれません。但し,次のことだけは確認しておきます。
──人格の物象化も物象の人格化も認識的な転倒ではな
く,現実的な転倒であり,従ってまた人格の物象化と物
象の人格化との対立も現実的な対立です。認識的矛盾
(物象化と物神崇拝との矛盾)と現実的矛盾(物象化と
人格化との矛盾)との区別──前者は後者の媒介項にな
ります──が“人格の物象化と物象の人格化との対立”
の大前提になります。従って,たとえ仮にヘーゲルが発
展した資本主義社会を見ることができたとしても,“人
格の物象化と物象の人格化との対立”という定式を打ち
立てるということはヘーゲルには困難であっただろう
と,俺は予測します。

 これに対して,マルクスの場合には,人格の物象化と物象の人格化とが区別
されて,やがて対立にまで行き着いた資本主義社会が理論対象になっていま
す。ここで,「人格の物象化と物象の人格化との対立」という対立軸が定立さ
れた時点で,人格そのものの(物象を媒介にした)自己分裂──類的本質とペ
ルソナとへの分裂──が問題にならざるを得なくなったのだと,俺は考えま
す。探求の道においては,法的人格が「抽象的普遍」であるということの把握
はそのような抽象的な形態を受け取る商品所持者・貨幣所持者・資本家の把握
に遡及し,商品所持者・貨幣所持者・資本家──つまり(俺の用語法では)物
象の人格化──の把握は商品・貨幣・資本の把握に遡及し,そして商品・貨
幣・資本──つまり人格の物象化──の把握は類的本質を人格として再把握す
るということに遡及すると,俺は考えます。物象の人格化を(人格の物象化と
並ぶ)対立項の一つとして把握するということこそが,実は物象化するべき人
格の把握を要請しており,これを通じて類的本質を人格として,そして法的人
格の方をその実現形態として把握するということを要請しているのだと,俺は
考えます。但し,探求の道では,これはいずれも発展した資本主義社会──人
格の物象化と物象の人格化とが対立している──を前提するわけです。
 そう考えると,マルクス人格論が「ヘーゲル所有論を引継いで」いるという
部分にも限定が必要だと思うのです。「所有論」云々という箇所から判断する
と,ここで神山さんが言及しているマルクス人格論とは法的人格論のことであ
る(つまり類的本質論は捨象されている)と解釈されます。ここで,もう一度
確認しておきますが,俺が人格論と言う時には,それは法的人格論だけではな
く,類的本質論まで含んでいます。確かにヘーゲル(および神山さん)の場合
には人格≡法的人格ですから,人格論≡所有論なのでしょう。しかし,マルク
スはこれを批判していると思うのです。神山さんもよくご存じである地代論緒
論におけるマルクスのヘーゲル批判を例に挙げてみましょう。このヘーゲル批
判のメインはヘーゲル所有論が結局のところ法的幻想の立場に陥っているとい
うことなのですが,俺が着目するのは次の部分です。──

ヘーゲルによる私的な土地所有の展開ほど滑稽なものはない。〔ヘーゲルによ
ると,〕人格としての人間は,外的自然の魂である自己意志に現実性を与えな
ければならず,それ故に外的自然を自己の私的所有物として占有しなければな
らない。もしこれが「そもそも人格というもの」の規定,人格としての人間の
規定であるとすれば,人間は誰しも,自己を人格として現実化させるために
は,土地所有者でなければならないということになってしまうであろう。
Nichts kann komischer sein als Hegels Entwicklung des Privat 
Grundeigenthums. Der Mensch als Person muß seinem Willen 
Wirklichkeit geben als der Seele der äussern Natur, daher sie als 
sein Privateigenthum in Besitz nehmen. Wenn dieß die Bestimmung 
,,der`` Person ist, des Menschen als Person, so würde folgen, 
daß jeder Mensch Grundeigenthümer sein muß, um sich als 
Person zu verwirklichen. [Hm, S.668]

 俺はこの部分をヘーゲルの“人格≡法的人格”という定式に対するマルクス
による批判だと解釈しているのです。但し,このような解釈が成り立つために
は,以下の二点について注意が必要です。
 第一に注意が必要であるのは,“人格は土地所有者でしかない”という『法
哲学』ヘーゲルの規定は,“人格は法的人格でしかない”という『精神現象
学』でのヘーゲルの規定──従ってまた“人格は私的所有者でしかない”とい
う規定──と同じものであろうということです。要するに,“人格は土地所有
者でしかない”という規定において重要であるのは“土地”という部分ではな
く,“所有者”という部分だということです。
 “何故に私的所有一般ではなく土地に対する私的所有なのか”という疑問を
抱く方がいらっしゃるかもしれません。しかし,土地に対する私的所有を他の
形態での私的所有(商品に対する私的所有,貨幣に対する私的所有,資本に対
する私的所有)から区別することがわれわれにできるのは,土地所有が資本に
よって規定されているということをわれわれが知っているからです。ところ
が,ヘーゲルの場合には,『資本論』がないから,商品も貨幣も資本も土地も
──私的所有の対象としての資格では──外的自然(従って土地)なのでしょ
う。確かに,商品・貨幣・資本も土地も自己にとっての単なる対象という資格
では「外的自然」(自己の外側にあって非自己的に,対象的に振る舞っている
対象)でしょう。とは言っても,そうではあっても,外的自然はやはり優れて
土地(商品・貨幣・資本から区別される限りでの土地,動産的物件から区別さ
れる限りでの不動産的物件,われわれが今日,“土地”という言葉で表象する
ような土地)ですから,外的自然に対する私的所有が外的自然に対する私的所
有である所以は,それが資本によって直接的に生産されない限りでの土地(わ
れわれが今日,“土地”という言葉で表象するような土地)に対する私的所有
だということになります。それ故に,私的所有一般は外的自然に対する私的所
有であり,外的自然に対する所有は優れて土地(商品・貨幣・資本から区別さ
れる限りでの)に対する私的所有であり,こうして私的所有一般は土地(商
品・貨幣・資本から区別される限りでの)に対する私的所有になるのでしょ
う。
 このように,上記引用文は地代論に置かれているからよく解らなくなってし
まうのですが,ヘーゲルにとっては土地所有こそが私的所有一般であった──
人格≡法的人格≡私的所有者≡私的な土地所有者──ということ,従ってまた
マルクスはヘーゲルの“人格≡私的な土地所有者”という定式を批判している
のではなく,“人格≡私的所有者一般”──つまり“人格≡法的人格”──と
いう定式を批判しているのだと,俺は理解しています。上記引用文が地代論に
置かれているのは,ヘーゲルにとって私的所有一般が優れて私的な土地所有で
あったからであるのに過ぎないと,俺は考えています。
 第二に注意が必要であるのは,ここでの現実化は人格の人格としての現実化
ではなく,人間の人格としての現実化のことを指しているのだということで
す。
 現実化する(verwirklichen)と言うと,やはり『フォイエルバッハ・テー
ゼ』の第6テーゼ──「その現実性〔Wirklichkeit〕においては,人間的本質
〔das menschliche Wesen〕は社会的諸関係のアンサンブルである」
(Thesen, S.6)──との関連が問題になります。つまり,もしヘーゲルにと
って土地所有者=私的所有者一般であり,且つマルクスが“人格≡私的所有者
一般(法的人格)”というヘーゲルの定式を批判しているならば,一見する
と,あたかも,ここでは,ブルジョア社会の現実的主体として私的所有者(法
的人格)とは別なフォイエルバッハ的主体(ありもしない主体)をマルクスは
想定しており,従ってマルクスによる上記ヘーゲル批判はフォイエルバッハ・
テーゼ[*1]とは──あるいは『資本論』初版の後書きでの「個々人は主観的に
は諸関係をどんなに超越しようとも,社会的には依然として諸関係の被造物な
のである〔deren[= derVerhältnisse] Geschöpf er[=der Einzelne] 
social bleibt, so sehr er sich auch subjektiv über sie erheben 
mag.〕」(KI (1. Auflage), S.14)という命題とも──完全に矛盾するとい
うことになってしまうかのように見えます。しかし,そうではないのです。
「現実化」,「現実性」の意味が『資本論』第3部の地代論緒論と第6テーゼお
よび初版後書きとの間では全く違うのです。
 (a)既に述べたように,『フォイエルバッハ・テーゼ』の人間的本質とは類
的本質のことであり,人格のことであると俺は考えています。従って,人間的
本質が現実性において社会的諸関係のアンサンブルであるということは,類的
本質としての人格が現実性において社会的諸関係のアンサンブル──つまり物
象の人格化としての人格──であるということを意味しています。もっと省略
して言うと,『フォイエルバッハ・テーゼでは』人格の人格としての現実性に
言及しているわけです。
 (b)これに対して,地代論緒論では,人格の人格としての現実化についてで
はなく,人間の人格としての現実化に言及しているのです。当該文において,
主語が「人間的本質」でも「人格」でも「類的本質」でもなく「人間」である
ということに着目してください。一言で言うと,ここでは人格の現実化ではな
く,人間の現実化に言及しているのです。ここで,俺の用語法では類的本質と
しての人格が労働において否定的・自己疎外的に形成されるのだということを
想起してください。その意味では,人格が人格として自己を現実化させるのが
物象の人格化として(そして相互的承認を媒介にして法的人格として)である
のに対して,人間が人格として自己を現実化させるのは類的本質としてなのだ
──と了解することができます。
 以上の二点に注意が払われさえすれば,前出引用文でのマルクスのヘーゲル
批判は,結局のところ,ヘーゲルの“人格≡法的人格”という定式に対する批
判なのだという解釈が成立します。ヘーゲルを読んでいない俺にはマルクスに
頼るしかないのですが,ヘーゲル所有論が結局のところ「滑稽な」法的幻想の
立場に陥ってしまったのは,このような形式的な人格把握が原因なのだとマル
クスは地代論緒論で述べているように,俺には思われます。
 最後に,誤解を避けるために何度でも繰り返しますが,固有の人格論(物象
の人格化論,そしてそれを通じて法的人格論)を展開するということ自体には
なんの異論もないのです。寧ろ,マルクス経済学にはこれまで決定的に欠如し
ていた重大な問題でしょう。問題はその展開の仕方なのです。固有の人格論
(法的人格論)を人格論の中に位置付ける(類的本質論によって根拠付ける)
のか,それとも人格の物象化を捨象して(労働による人格の否定的形成を捨象
して)人格論をただ固有人格論としてのみ展開するのか──これこそが俺にと
っての問題なのです。神山さんおよびヘーゲルの“人格≡法的人格”という定
式を批判するのもこの問題意識から生じているのだということをご理解いただ
ければ幸いです。
 同様にまた,神山さんの議論とヘーゲルの議論とを混同するつもりもありま
せん。もちろん,神山さんの議論はヘーゲルの議論とは全く別ものなのでしょ
う。けれども,“人格≡法的人格”という定式を立てた時点で,もし理論を一
貫させようと試みる(最後の最後まで“人格≡法的人格”という定式を維持さ
せる)ならば,“人格とは社会的諸関係のアンサンブルでしかない”というこ
とになってしまい,その結果として,固有の労働論と固有の人格論(神山さん
がおっしゃる人格論)との関連が不明確になってしまい,変革主体と人格との
関連も不明確になってしまう──そういう危険が生じる可能性があると思うの
です。逆に言うと,神山さんの理論はヘーゲル流の“人格≡法的人格”という
定式を拒否するはずだと思うのです。

参照文献

Hm, Das Kapital (Ökonomisches Manuskript 1863--1865) Drittes 
    Buch, In: MEGA^2 II/4.2.
KI (1. Auflage), Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie. 
    Erster Band. Hamburg 1867, In: MEGA^2 II/5.
Thesen, Thesen über Feuerbach, In: MEW, Bd. 3.