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 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
 ただ今,多忙中に付き,取り敢えず,質問およびコメントにお答えいたしま
す。なお,引用の際には,一部,改行位置を変更しました。ご了承ください。
 神山さん,人格概念については,取り敢えずすっきりしました。

>相互承認における人間を人格と呼びます。

 ここで,「相互承認における人間」というのが,相互的に承認する(相互的
承認を措定する)主体であるのか,相互的に承認された(相互的承認によって
措定された)主体であるのか,解釈の余地がありますが,──

>所持者を人格と呼ぶことにしたのは、今井さんの用語にあわせま
>した。

つまり,「相互承認における人間」とは「相互承認によって措定された主体」
のことですね。了解いたしました。すっきりしました。やはり,神山さんの場
合には,資本主義社会では,人格は(労働過程から切り離された)交換過程で
形成されるものである,と。但し,共産主義社会における自由な個体性を持つ
個人も承認されているから人格である,と。つまり,資本主義社会では,人格
は法的人格,物象の人格化,社会的諸関係のアンサンブルであるのに過ぎない
のだ,と。
 第一に,(交換過程から切り離された)労働過程での人格形成については,
これを認めないわけですね。だってそうでしょう。なにしろ,法的人格がどん
なに自立化しても,(交換過程から切り離された)労働過程では,相互的承認
が行われないわけですから,主体は法的人格として発生するわけではないでし
ょう。
 第二に,人格の物象化という用語についても,相互的関連においてはともか
くとして,発生的関連においては,これを放棄するわけですね。神山さんは
“[ism-study.51] Versachlichung der Personen”(1999/09/05 19:17)で,
物象化するべき人格について,──

>「物象を措定する人格」とは、労働において自己を実現できない労働
>の人格性のことである。自己否定的に、自己実現する人格のことである。

と書いていますが,「自己否定的に、自己実現する人格」は人格ではないわけ
ですね。だってそうでしょう。第一に,現代的社会(の正常な進行)では(交
換過程から切り離された)労働過程では相互的承認なんて行われないのですか
ら[*1]。

[*1]ここで,資本主義的生産の枠内での資本の止揚にお
いては労働過程でも承認原理が部分的ではあっても導入
されるのではないのか,と考える方がいらっしゃるかも
しれません。しかし,当然ながら,「物象を措定する人
格」とは何であるのかということは資本の止揚に先行し
て規定されなければならないわけです。何故ならば,当
前ながら,人格の物象化は資本の止揚に先行するからで
す。しかも,資本主義社会が資本主義社会である限りで
は,このような導入は正に部分的に留まるわけです。更
に,このような導入は交換過程での相互的承認を前提し
ているわけです。

 まぁ,この「自己実現」がなんのことであるのか,解釈の余地があります
が,ここでは(交換過程から切り離された)労働過程での「自己実現」である
と解釈しました(つまり「労働において自己を実現できない」=「自己否定的
に、自己実現する」と解釈しました)。これに対して,(労働過程から切り離
された)交換過程での「自己実現」であると解釈してみましょう。この場合に
は,神山さんにとって人格というのは法的人格──従ってまた物象の人格化と
しての人格──のことなのですから,発生的関連においては,「物象を措定す
る人格」──物象化するべき人格──が「人格である」というのは循環論法に
なってしまいます。何故ならば,「物象を措定する人格」──物象化するべき
人格──は物象の人格化としての人格になってしまうからです。つまり,人格
の物象化において,肝心の「人格」が物象の人格化なのですから,人格の物象
化は“(物象の人格化)の物象化”になり,しかしまた物象は人格の物象化な
のですから,人格の物象化は今度は“[(人格の物象化)の人格化]の物象
化”になり,しかしまた人格は物象の人格化なのですから,“{[(物象の人
格化)の物象化]の人格化}の物象化”になり(以下省略),循環論法になっ
て何が何だかさっぱり解りません[*1]。

[*1]もちろん,発生的関連は相互的関連に転回し,循環
論法が成立するのです。そこで,発生的関連なんてどう
でもいいじゃないのか,と考える方もいらっしゃるかも
しれません。しかし,正に相互的関連の真っ只中で発生
的な関連が成立するからこそ,人格の物象化と物象の人
格化とが対立し,人格が自己矛盾を意識するわけなので
す。

 こういうわけで,物象と人格とのいずれかが,相手から独立に定義されなけ
ればならないわけであり,物象の方が人格の物象化としてしか定義され得ない
以上,人格の方は物象の人格化としてのみ定義されるのではならないわけで
す。ところが,神山さんの場合には,人格の方も物象の人格化としてしか定義
され得ない以上,結局のところ,神山さんの場合には,やはり「自己否定的
に、自己実現する人格」は(交換過程から切り離された)労働過程で発生する
“人格にはまだなっていない主体,人格になるべき主体”でしかあり得ないわ
けです。
 第二に,交換過程での相互的承認によって類的本質が否定的に実現されちゃ
ったのが法的人格ですから,神山さんの場合には,そもそも「自己否定的に、
自己実現する人格」と言っても,何を以て人格(神山さんの場合には法的人
格)が「自己否定的に、自己実現する」ということを指しているのか,今一つ
不明なのです。たとえ何度,繰り返し相互的承認が成立しても,それは法的人
格が自己(つまり法的人格)としての資格で法的人格としての自己を実現して
いるのではないのだという点については,既に何度も繰り返し述べました。国
家形成とかそういうことを想定するのであればともかく,少なくとも現行版
『資本論』の枠内での議論について言うと,法的人格が「自己実現」する場面
というのがちょっとピンと来ないのです。
 このように,どう考えても,「「物象を措定する人格」とは、〔……〕自己
否定的に、自己実現する人格のことである」という命題は神山さんの人格概念
に即しては誤りであるということになります。

>マルクスが人格(人格化)という言葉を用いても、人格の形態そのもの
>(相互承認)という意味か、人格の内容(人格として現れる当事者、人間
>の人格形成能力)という意味か、文脈によります。

 第一に,神山さんの場合には,承認が人格の実体なのですから,人格は承認
の形態であるということになり,「人格の形態そのもの(相互承認)」という
言い方は神山さんの理論に即してはおかしいのではないでしょうか。「人格の
形態そのもの(相互承認)」と言っちゃうと,俺が相互的承認は人格の形態的
契機であると言うのとあんまり変わりがなくなってしまいます。相互的承認が
人格の実体であるのか人格の形態であるのか,どちらかに決めていただきたい
のです。もし相互的承認が人格の形態かつ実体であるならば,今度は,人格と
は相互的承認のことである(相互的承認と同義である)ということになってし
まい,何がなんだか解らなくなってしまいます。
 第二に,神山さんご自身は,「人格の内容(人格として現れる当事者、人間
の人格形成能力)という意味」でマルクスが用いている人格あるいは人格化の
ことを,人格あるいは人格化と呼ばないわけですね。いや,神山さんにとって
は別に呼んでも呼ばなくてもどうでもいいのでしょうが,一応,神山さんご自
身がどう呼ぶのか,ここで確認しておかないと,後々議論が混乱しますので。
 つまり,直接的生産過程の内部での資本の人格化の発展なんかは用語上,認
めない,と。賃金労働者と資本家との対立も,人格の対立としては,用語上,
認めない,と。だって,これは自由・平等な私的所有者の対立ではなく,労働
の人格化と資本の人格化との対立であるわけですから。なにしろ,資本家と労
働者とは,交換過程では,私的所有者として抽象的に承認されるわけであっ
て,資本家および労働者として承認されるわけでは決してありませんから。正
に一切の具体性を剥奪されて私的所有者一般として抽象的に承認されるからこ
そ,法的人格は抽象的人格であるわけですから。いや,それどころか,商品の
人格化,貨幣の人格化,資本の人格化,労働の人格化は(物象の区別ではあっ
ても)人格の区別ではないのですね。なにしろ交換過程では無区別なものとし
てしか,つまり抽象的にしか承認され得ないわけですから。と言うか,神山さ
んの場合には,寧ろ,貨幣の人格化,資本の人格化,労働の人格化という表現
はおよそ無意味であって,ただ物象の人格化あるいは商品の人格化だけがある
のだということになりますね。だって,交換過程では,商品所持者は商品所持
者として承認されるのではなく私的所有者として承認されるのであり,貨幣所
持者は貨幣所持者として承認されるのではなく私的所有者として承認されるの
であり,資本家は資本家として承認されるのではなく私的所有者として承認さ
れるのであり,労働者は労働者として承認されるのではなく私的所有者として
承認されるのですから。およそ法的人格というものは正しくこういった区別が
総て捨象されている抽象的な人格でしょう。正しくヘーゲルが述べているよう
に,法的人格は抽象的普遍でしょう。どんなに繰り返し「再生産」され,どん
なに自立化しても,法的人格は抽象的普遍でしょう。なにしろ,現代的社会
(の正常な進行)では他に承認のされようがないのですから。

>類的本質は、人格です。

 いや,神山さんの場合には,類的本質は──法的人格としては人格でしょう
が──,(交換過程から切り離された)労働過程で発生する主体としては人格
ではないでしょう。だって,(交換過程から切り離された)労働過程で発生す
る主体は相互的承認の措定ではなく,(承認契機を交換過程に疎外してしまっ
ている)労働の措定なのですから。あるいは,神山さんが前記引用に続けて,
──

>生産→承認→人格、です。

と書いている部分から判断すると,ひょっとすると,神山さんの場合には,類
的本質そのものが(労働過程から切り離されている)交換過程での相互的承認
によって発生する──つまり(交換過程から切り離されている)労働過程では
(自己否定的・自己疎外的に)発生しない──のでしょうか? そう解釈する
と,筋は通りますが……。類的本質は法的人格のことであり,(交換過程から
切り離されている)労働過程では発生せず,(労働過程から切り離されてい
る)交換過程で発生すると解釈して宜しいのでしょうか? つまり,神山さん
の場合には,(交換過程から切り離されている)労働過程での労働は,類的本
質を措定しないと解釈して宜しいのでしょうか? 但し,そうなると,今度は
類的本質と法的人格との区別が不明になり,“[ism-study.59] Arbeit und 
Person”(1999/09/13 20:48)での──

>類的本質は、即自性。実在化は、法的人格として。

という発言との関連性が不明になってしまうのですが。

>労働の本質と
>して、労働に人格があるのです。しかし、商品生産として実現したあり方
>では、交換が生産過程から分離し、生産過程の中ではなく、交換という、
>私的生産の外に向う姿において、人格なのです。

 要するに,「商品生産として実現したあり方では」,「労働」──つまり
「商品生産として実現したあり方では」交換から切り離されている労働──
「に人格が」ないからない(全くない)わけですね。だって「商品生産とし
て実現したあり方では」,人格は法的人格以外のものではあり得ないのですか
ら。で,資本主義的商品生産も商品生産であり,そこでは「交換が生産過程か
ら分離し」ているわけですよね。そうすると,やっぱり,神山さんの場合に
は,資本主義的生産での“労働における人格形成”という問題は全くないわけ
ですね。俺の場合にも,“労働における人格形成”は法的人格の形成ではない
のですが,“承認されるべきものが人格である”と把握するということによっ
て労働における人格形成と変革主体形成という問題が生じるわけです。

>2層構造論というのは、資本論の記述の存在性格の了解が
>マルクスとは正反対でしょう?全く違うのではないですか?

 うーむ,どうも,俺はそこではそんなことは問題にしていないと思うのです
が……。ちょっと,神山さんのコメントの趣旨が解りにくいから,二通りの解
釈を示しておきます。その前に,これまでのコメントの流れを総て引用してお
きましょう。
 “[ism-study.52] Re^2: Questions About "Person"”(1999/09/05 
22:22)での俺の発言。

>[*1]以下では,またまた話がぶっ飛びますから,お気軽
>にお読みください。──実は,完結した単純商品流通の
>世界の非完結性こそは「貨幣の資本への転化」の問題な
>のです。(a)第一に,現行版『資本論』の第1巻2篇「貨
>幣の資本」への転化については,認識主観の認識手続き
>に関する限りでは,単純商品の概念的把握と金儲けとい
>う表象との矛盾という見田さんの古典的な見解がありま
>す。認識主観の認識手続きに関する限りでは,俺はこれ
>よりも優れた見解を知りません。しかし,見田さんに決
>定的に欠如しているのは,何故に認識主観はこのような
>手続きをふまえることができるのかという問題,つまり
>認識手続きの現実的根拠の問題です(そこで,次の(b)
>で述べるような問題については見田さんの理論は全く無
>力です)。俺自身,まだきちんと整理することができて
>いないのですが,認識主観が現行版『資本論』のような
>手続きを経ることができるのは,単純商品流通がその完
>結性の真っ只中で疎外の発生的関連を通じて自己の非完
>結性をも現実的に表示しているからだと思うのです。
>(b)第二に,『資本論』諸草稿と『資本論』との間で
>の,一見して誰にでも解るような叙述の相違がありま
>す。そこにバックハウスらは,論理的方法から歴史的方
>法へのマルクスの方法的俗流化の一例を見て取るので
>す。そもそも論理的−歴史的というのがナンセンスな対
>立項──マルクス自身はそんな対立項を用いていない!
>──なのですが,マルクス批判をしようとしているバッ
>クハウスらにそんなことを言っても全く無意味です。で
>すから,俺は,単純商品流通に即してその非完結性(商
>品・貨幣の世界から資本の世界への移行)を論証しなけ
>ればならないわけです。

 前出引用に対する“[ism-study.59] Arbeit und Person”(1999/09/13 
20:48)での神山さんのコメント。

> システムは、再生産によってシステムであり、商品はシス
>テム化するには、商品が前提を措定する。商品が自己の前提
>・諸条件を措定する。これがシステム発生。不断の再生産。
>マルクスの商品も、我々が買う商品も、同じ今である。
>
> 自己=総体=完結の突破プロセスが資本論でしょう。

 前出神山さんのコメントに対する“[ism-study.60] Re: Arbeit und 
Person”(1999/09/14 21:25)での俺のコメント。

> いや全く,おっしゃる通りです。ですが,資本が突破するということについ
>ては多くの人がこれを認めているのです(もちろん,宇野理論──世界資本主
>義論は除く──のようにこれを認めていない人たちもいます)。佐藤金三郎さ
>んだってバックハウスだって,多分,これを認めるでしょう(完結した商品流
>通の世界と完結を突破する資本主義的生産の世界との二層構造)。俺が問題に
>しているのは,単純商品流通の世界が完全に完結していてそれに対していきな
>り資本がの完結を突破するものとして現れるのかということなのです。既に何
>度も繰り返して述べているように,俺の考えでは──とは言っても,全然,展
>開することができないのですが──,“単純商品流通は自己自身の根拠を包摂
>していないとは言っても,やはり疎外された世界なのだから,疎外の発生的関
>連において完結の破綻を提示するのではないか。そして,これこそが貨幣の資
>本への転化の問題なのではないのか”ということなのです。

 それでは,神山さんのコメントの趣旨の解釈に移ります。第一に,“今井は
「2層構造論というのは、資本論の記述の存在性格の了解がマルクスと」全く
同じであると主張しているが,これは誤りである”という趣旨である場合。前
出引用の総てにおいて俺はそんな主張はしていません。ご確認ください。
 第二に,“今井は,「2層構造論というのは、資本論の記述の存在性格の了
解がマルクスとは正反対で」あるということを強調していないが,これは不適
切である”という趣旨である場合。これは確かにその通りです。しかし,(a)
“[ism-study.59] Arbeit und Person”の中では神山さんもそういうことを強
調していません。もちろん,佐藤さんについてもバックハウスについてもその
「存在性格の了解がマルクスとは正反対で」すが,佐藤さんもバックハウス
も,商品が自己の前提を措定するということもそれ自体としては否定しないで
しょう(もちろん,「存在性格の了解がマルクスとは正反対で」ある以上,そ
の意味するところも「マルクスとは正反対で」すが)。(b)佐藤さんもバック
ハウスも自覚的にマルクスを批判しているのですから,「存在性格の了解がマ
ルクスとは正反対で」あるような人たちに,お前らの「存在性格の了解」は
「マルクスとは正反対」なんだぞといきなり言ってもあまり有効な批判になる
とは思えません(最も俺にそういう主張をするだけの能力がないという方が大
きいのですが)。俺の前出諸コメントの中で,「2層構造論というのは、存在
性格の了解がマルクスとは正反対で」あるという点に最も強く関連しているの
は「そもそも論理的−歴史的というのがナンセンスな対立項──マルクス自身
はそんな対立項を用いていない!──なのですが,マルクス批判をしようとし
ているバックハウスらにそんなことを言っても全く無意味です。ですから,俺
は,単純商品流通に即してその非完結性(商品・貨幣の世界から資本の世界へ
の移行)を論証しなければならないわけです」という部分でしょう。と言うの
も,「論理的−歴史的」という「ナンセンスな対立項」を立てるのは,そもそ
も「存在性格の了解がマルクスとは正反対で」あるからです。但し,これに対
して,「存在性格の了解がマルクスとは正反対で」あるということをいきなり
対置するのではなく,貨幣の資本への転化ってのはそんなもんじゃないんだぞ
ということを明らかにするということによって,お前らの「存在性格の了解」
はちょっとおかしいんじゃないのかということを示そうとしているわけです。

>私もそう真底考えているんですが…。

 「そう真底考えてい」ないと思いますよ。そうだとすると,類的本質は(承
認される前から)人格だということになってしまい,また承認する主体も人格
だということになってしまい,神山さんの人格概念と抵触してしまいますの
で。たとえ仮に神山さんの構造が俺の構造と同じであるとしても,俺の場合に
は,──

┌  類的本質(=人格)
│    |
人  物象化
格    ↓
‖  (物象)
一    |
つ  人格化
の    ↓
も  商品所持者(=人格)
の    |
│  承認
│    ↓
└  私的所有者(=人格)

となるのです(もちろん上図は発生的関連の図であり,従って商品所持者も法
的人格も物象化するべき人格と同様に類的本質であり,また法的人格も商品所
持者と同様に物象の人格化です)が,神山さんの場合には,(上図での)類的
本質は人格ではないし,商品所持者も人格ではないし,またこれらを一つのも
のとして──但しバラバラに──統一しているのも人格ではないでしょう。
 神山さんの場合には,上図のような発生的関連(まぁ,ちょっとは違っても
いいのですが,いずれにせよ人格化に物象化が先行するという発生的関連)を
採用するとしても,物象化において人格の物象化が“人格”の物象化としては
成立しません。従って,上図のような発生的関連を想定する限りでは,神山さ
んの場合には,人格の物象化という用語を放棄しなければならないわけです。
俺の考えでは,これが神山説の最大の独自性になっているのです。なお,もい
そもそも上図のような発生的関連を受容しない(例えば物象の人格化が人格の
物象化に先行する)のであれば,もちろん,それはそれで「そう真底考えて
い」ないということになるでしょう。

>法的人
>格は、再生産されることで生きているのです。

 どこで「再生産」されているのでしょうか。もちろん,交換過程で再生産さ
れているのですよね。法的人格は交換過程で“生産”された以上,「再生産」
も交換過程でなされるしかないですよね。システムに即しては,毎日毎日交換
過程で再生産されているからこそ,政治的国家においても家庭においても人格
として承認されているわけですよね。「みんな、うまれつき、(承認された)
市民国家の一員」[*1]であるとしても,まさか子供を生むことを人格の再生産
とは呼ばないでしょう。自立化しているとは言っても,まさか空気を吸うこと
で再生産されているわけではないでしょう。あくまでも形態規定であるわけで
すから。

[*1]確かに,現在の民法解釈では,法的人格であるため
には,行為能力をもっていなくてもよく,権利能力だけ
もっていればよく,従って,商品所持者でなくても法的
人格であり,それどころか赤ん坊でも行為無能力者でも
法的人格になってしまっているわけです。けれども,赤
ん坊が法的人格を「再生産」しているわけではなく,あ
くまでも行為能力者が交換過程で法的人格を「再生産」
していると,俺は考えます。

 このように,法的人格は交換過程で再生産されていると俺は考えます。現代
的社会の正常な進行を前提する限りでは,直接的生産過程の内部では,人格は
承認されようがないから,法的人格は再生産され得ないと考えます[*1]。寧
ろ,資本の直接的生産過程では法的人格(私的所有者)は逆に徹底的に否定さ
れているわけです。発生において交換過程で相互的承認によって措定されたの
ですから,再生産においても交換過程で相互的承認によって措定されるしかな
いと考えます。既に何度も述べているように,労働と交換とが分離してしまっ
ているから,人格形成も労働での人格形成(神山さんがどうしても人格形成と
しては認めない場面)と交換での人格実現(物象の人格化の発生)とに分離し
てしまっていると考えます。この分離を止揚するのが共産主義です。

[*1]ここでもまた,資本主義的生産の枠内での資本の止
揚においては労働過程でも承認原理が部分的ではあって
も導入されているから,法的人格は労働過程で再生産さ
れているのではないのか,と考える方がいらっしゃるか
もしれません。しかし,第一に,労働過程の中で法的人
格が「再生産」されていないからこそ,“導入”なので
す。発生の場面で,つまり交換過程で法的人格は「再生
産」されているからこそ,承認の原理を“導入”すると
いうことが可能になるのです。第二に,労働過程の中で
法的人格が「再生産」されていないからこそ,“部分
的”なのです。もし労働過程の中で法的人格が「再生
産」されているならば,交換過程でそうであるように,
法的人格は労働過程の中でも“全面的”になってしまう
でしょう。第三に,ここでの承認原理の部分的導入は資
本主義的生産の具体的なリアリティ──敵対的な,且つ
社会的な生産──を承認してしまっているのであって,
決して法的人格が,私的所有者が,つまりこういう抽象
的なものが承認の結果として措定されているわけではな
いのです。

>私的生産の中の、賃金労
>働者の人格は問われようがないのではないでしょうか。

 いや,労働する人格は資本の生産過程論では問われると思うのですが。ひょ
っとすると,神山さんは“今井は単純商品流通の枠内で類的本質形成のプロセ
スが明らかになっていると主張している”と誤解しているのでは? もしこれ
が誤解の誤解であったら誠に申しわけないのですが……。

>ヘーゲルは重たいんで勘弁してください。

 まぁ,ここで俺が問題にしているのはヘーゲルの人格論の全体像ではなく,
あくまでも神山さんによる引用から判断される限りでのヘーゲルの人格概念
(と神山さんの人格概念との関連)だけですから,今すぐにとは言いませんか
ら,時間がある時にでも,どうか不勉強な俺にご教示ください。

>自由な主体性の実現が絶対知ですからねえ。

 絶対知のことはちょっとよく解らないので教えていただきたいのですが,ヘ
ーゲルの場合に絶対知で実現される「自由な主体性」というのは抽象的普遍な
んですか? これに対して,ヘーゲルはこりゃもう明確に“人格は抽象的普遍
である”と言っているわけですよ[*1],[*2]。そして,神山さんはこれを肯定
的に引用しているわけです。そうである以上,“共産主義で実現される「自由
な主体性」も人格ではない,共産主義では人格は消滅する”と神山さんが主張
していると解釈するしかないのではないでしょうか(そう主張しているのでは
ないということは,ようやくなんとか解りましたが)。神山さんがああいう引
用の仕方をしている以上,他の解釈は不可能だと思うのです。もっと言うと,
たとえ仮に万が一,ヘーゲルが“人格は単に抽象的普遍であるだけではなく,
具体的普遍でもある”と主張しているとしても,あの引用からそれを汲み取っ
て,それが神山さんの人格概念であると解釈するのはますます以て不可能だと
思うのです。

[*1]ヘーゲルの場合には,あくまでも人格≡法的人格≡
抽象的仮面である以上,これは当然のことでしょう。マ
ルクスが批判しているように,ヘーゲルにとっては人格
とは(土地に対する)私的所有者のことなのでしょう。
人格≡法的人格≡抽象的仮面≡私的所有者≡抽象的普
遍。実に見事な,明確な主張です。で,今回の投稿を見
る限りでは,神山さんも,現代的社会については,この
構造を継承しているわけです(共産主義社会については
違うようですが)。

[*2]ヘーゲルにとって,もちろん人格は自由な主体性な
のでしょうが,しかし抽象的普遍としての「自由な主体
性」なのでしょう。

>それって、まさにヘーゲルの、宗教の世界でしょう。

 俺はヘーゲルの理論構造なんてさっぱり解らないから,ヘーゲルの人格概念
に即して議論しています。第一に,“[ism-study.51] Versachlichung der 
Personen”(1999/09/05 19:17)において,この「宗教の世界」での人格を指
し示す引用はどれだったのでしょうか? 第二に,この宗教の世界での主体は
「所有主である限り」(神山さんの“[ism-study.51] Versachlichung der 
Personen”からの孫引き)で「定在をもつ」(同上)ような主体なのでしょう
か?