本文
神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
ただ今,多忙中に付き,取り敢えず,質問およびコメントにお答えいたしま
す。なお,引用の際には,一部,改行位置を変更しました。ご了承ください。
>今井さんのおっしゃる現実的人格、賃労働者の人格とは、具体的に何を指すのか
これまでの俺の投稿で「賃労働者の人格」という用語はただの一度たりとて
使用していないはずですから,「今井さんのおっしゃる」という部分は「現実
的人格」という部分にだけかかると解釈します。
「現実的人格」とは,その現実性における類的本質のことであり,従って物
象の人格化としての人格(法的人格もこれに含まれます)のことです。つま
り,社会的関係のアンサンブルとしての人格のことです。「現実的」という限
定については,「その現実性においては」というフォイエルバッハ・テーゼの
第6テーゼからの借り物です。
>類的本質が人格である、能動的な類的な人間本質である、というのなら、賛
>成しますが。
いや,賛成していないのでは? 類的本質は交換に先行して(交換過程から
切り離された)労働過程で否定的に措定される[*1]と,俺は考えるのです。そ
して,類的本質は(労働過程から切り離された)交換過程で否定的に実現され
ると,俺は考えるのです。更に,物象の人格化としての人格だけではなく,こ
のように(交換過程から切り離された)労働過程で否定的に措定される限りで
の類的本質[*2]をも俺は人格と呼んでしまっているわけです。
[*1]但し,俺が何度も強調しているように,──このこ
とは単純商品流通をいくら眺め回しても現れてきませ
ん;単純商品流通が表すのは疎外の発生的関連とそれを
通じて自己の発生根拠とです;但し,資本主義的生産の
立場から単純商品流通を反省してみると,物象化するべ
き人格は類的本質としか言いようがないわけです。──
以上の点については,これまでの投稿で何度も強調した
部分ですから,詳しくは,そちらの方をご覧ください。
もし神山さんが類的本質が法的人格とは異なって(交換過程から切り離され
た)労働過程で発生する主体であると考えているのであれば,神山さんの場合
には(交換過程から切り離された)労働過程で否定的に措定される主体──ま
さかこれは法的人格ではないでしょう,だって私的所有者として相互的に承認
されていないのですから──はそもそも人格ではないから,「類的本質は人格
である」という命題は神山さんに即しては誤りだということになります。要す
るに,神山さんの場合には,現代的社会においては,法的人格になった類的本
質だけが人格なのだということになるのでしょう。俺は法的人格になる前から
類的本質は人格なのだと考えるわけです。ここが,決定的に違うのでは?
これに対して,もし神山さんが類的本質も(労働過程から切り離された)交
換過程で発生する法的人格であると考えているのであれば,それはそれで,や
はり俺の考えとは全く異なることになります。その上更に,「類的本質が
〔……〕能動的な類的な人間本質である」という命題も,厳密に言うと,神山
さんに即しては誤り(少なくとも不十分)だということになります。この場合
には,神山さんに即しては,「類的本質」は単なる「能動的な類的な人間本質
で」はなく,(労働過程から切り離された)交換過程で承認された「能動的な
類的な人間本質」,承認済みの「能動的な類的な人間本質」だということにな
るでしょう。
>1人格の物象化→2物象の人格化→3人格の物象化で、1は、私的生産という、
>類的本質の疎外ですが、直接には賃金労働者でなく、私的当事者の社会関係
>の自立、を指す、3は、所有者からの所有の疎外、交換関係の物象化、という
>再規定、といってよいでしょうが、今井さんのおっしゃる根源的人格とは、
>要は、労働する個人のことでしょう?
>ならば、私の論議と、そうかわらない、とおもうのですが。
いや,随分と「かわ」ると思うのですが。神山さんの場合には,発生的関連
においては,人格が登場するのは2においてですよね。ですから,発生的関連
においては,1は人格の物象化ではなく,人格的能力をもつ主体(まぁ,神山
さんはいろいろな呼び方をしていますが,いずれにせよ人格ではない主体)の
物象化になるはずです。
次に,「今井さんのおっしゃる根源的人格」についてですが,そういう用語
を俺は用いていませんが,恐らくそれは俺が言っている「物象化するべき人
格」を指しているのだろうと,解釈します。これはもう類的本質としか言いよ
うがありません。
最後に,「労働する個人」についてですが,俺はこれまでの投稿ではこの用
語を用いていません。少なくとも人格に絡んだ議論では,自覚的に用いないよ
うにしているのです。但し,これは用いてはいけないと主張しているわけでは
決してなく,マルクスによる「労働する個人」の用例がかなり文脈依存的であ
り,解釈問題として俺自身の中でいくつか解決していない問題があるからなの
です。要するに,俺が不勉強であるから,用いていないわけです。と言うわけ
で,これについてもお答えをご容赦ください。
>意思を生むのであれ、共通意思に反省するのであれ、意思関係に座らない人
>格とは、類的な、人間的な能力のことしかないとおもいますが。
いや,神山さんもよくご承知のように,意志(Willen)そのものは労働によ
って既に措定されているわけです。但し,「意思関係に座らない」という箇所
から判断すると,神山さんが「意思」と呼んでいるのは交換関係で発生する意
志関係(Willenverhältniß)のことであろうと,解釈します。こういう
わけで,上記引用文は,“意志関係を措定するのであれ,意志関係によって措
定されるのであれ”,「意思関係に座らない人格とは、類的な、人間的な能力
のことしかない」というように変更しておきます。
第一に,「意思関係に座らない人格」という部分の解釈が俺にとっては重要
です。既に述べているように,意志関係を措定するということも意志関係の中
で承認されているということも人格の(類的本質の)形態的契機であって,も
ちろん人格とは無関係なものでは決してありません。だからこそ,発生的関連
において,類的本質は商品の人格化として意志関係を措定する主体にならなけ
ればならないのであり,また法的人格として意志関係の中で承認されている主
体にならなければならないわけです。この意味では,つまり意志関係を措定
し,また意志関係の中で承認されるということが自己の必然的な形態的契機で
あるという点では,人格(類的本質)は「意思関係に座」っています。
これに対して,もし「意思関係に座らない」ということが,意志関係を措定
するべき主体,意志関係の中で承認されるべき主体として意志関係そのものに
先行して発生しているということであるならば,おっしゃる通り,発生的関連
において物象化するべき人格は「意思関係に座らない人格」です。但し,「類
的な、人間的な能力」ではありません。対象的な能力(Kraft)ではなく,自
己的な本質的存在(Wesen)です。こういった点で,それは類的本質としか言
いようがないわけです[*1]。もちろん,実現された類的本質ではありません。
もちろん,「その現実性における」類的本質ではありません。そうではなく,
自己の自覚的現実化──自己自身を──を(労働過程から切り離されている)
交換過程に疎外している類的本質です。それどころか,自己の類的本質まで
──ホントにホントに自己自身まで──物象に疎外している類的本質です。
[*1]なお,「人間的な」という部分について付け加えて
おきます。既に何度も述べているように,フォイエルバ
ッハの第6テーゼの「人間的本質」は類的本質のことで
あると俺は解釈しています。但し,これは解釈上の問題
であり,俺自身は人間的本質という用語を使いません。
第一に,「人間的本質」と言うと,フォイエルバッハ的
主体と誤解されてしまうからです(実際にまた,フォイ
エルバッハの用語であって,マルクス自身の用語ではあ
りません)。第二に,それを別にしても,「人間的」と
いうのはあまりに曖昧だからです。屁をこくのも人間
的,カレーライスを食うのも人間的,遊びは最も人間
的……。まぁ,類的本質というのも曖昧な用語なのです
が,類(Gattung)という方が人間的(menschlich)と言
うよりはまだましです。
事実的な社会形成(諸人格の関係が諸物象の関係として現れる)と自覚的な
社会形成(諸物象の関係が諸人格の関係として現れる)とが分離してしまって
いるのです。そして,いかに無自覚的,事実的,物象的,非人格的,非自己
的,自己否定的,自己疎外的な社会形成であってもやはり社会形成の主体は人
格であるわけです。ところが,この人格は自己の形態的契機を(自己自身を)
交換過程に疎外してしまっている──現実的人格は諸物象の関係のアンサンブ
ルになってしまっている──わけですから,このような人格は類的本質としか
言いようがないわけです。
もちろん,類的本質は人格そのものなのですから,物象の人格化も,法的人
格も類的本質なのですが,実現された類的本質,現象形態における類的本質な
のです。本質発生と形態発生とが分離してしまっているのです。
>人格を、類的本質という実体に対する形態としています。この形態固有の規
>定はなにですか。意思を媒介とする、ということではないのですか。
人格という(類的本質の)形態,つまり(類的本質の)形態としての人格に
ついて言うと,既に何度も述べているとおり,類的本質(ここでは実体として
の人格)は物象の人格化(法的人格は更にその抽象的形態)として実存形態を
受け取るわけです。
さて,「意思を媒介とする」という点だけについて言うと,既に述べたよう
に労働過程で発生する類的本質が既に意志(Willen)を「媒介とする」存在で
す。なにしろ労働する人格なのですから。労働そのものが意志を措定し,また
それを通じて,意志によって媒介されています。但し,恐らく,神山さんがこ
こで主張したいのはそういうことではなく,「意思」関係「を媒介と」して社
会的関係を結ぶということでしょう。それならば,(類的本質の形態化として
の)物象の人格化一般の形態規定性が「意思を媒介と」して社会的関係を結ぶ
ということになります。既に述べているように,俺の場合には相互的承認を行
う主体は(類的本質の形態化としての)物象の人格化です。これに対して,法
的人格──それ自身,物象の人格化なのです(従ってもちろん類的本質の形態
化なのです)──の形態規定性は,物象の人格化が「意思を媒介と」して社会
的関係を結んだ結果であるということ,つまり社会的に承認されているという
ことになるわけです。
「意思を媒介と」して社会的関係を結ぶということも,社会的に承認されて
いるということも,更にはまた単に承認し承認されるだけではなく実際に社会
的な質料変換を媒介するということ(つまり現代的な社会では商品譲渡)も,
総て契機として,人格(ここでは類的本質)に含まれているわけです。だから
こそ,他者を承認するということも,社会的に承認されているということも,
いずれも人格の──実体ではなく──形態的契機なのです。
最後に,──これは全く蛇足ですが──,「類的本質という実体」ではなく
類的本質という形態について言うと,その形態規定性はもう個別的なものとし
ての社会形成主体であるということにあります。既に何度も述べているよう
に,俺の考えでは,物象化するべき人格は,資本の生産過程から反省してみる
と,こりゃもう類的本質としか言いようがないのですが,但し自覚的な社会形
成──「意思を媒介と」して社会的関係を結ぶということ,社会的に承認され
ているということ──という自己自身の契機から切断されているのです。しか
し,それにも拘わらず,“この”類的本質は,無自覚的にではあっても,やは
り商品(物象)という形態で物象的な社会的生産関係を措定している(その限
りでは社会形成している)のです。承認されていようといまいと,商品を生産
しちゃったのです。承認されていようといまいと,事実的に社会を形成しちゃ
ったのです。交換過程に先行して商品(物象)が価値関係を結んでいるという
ことこそが,“この”類的本質の社会形成のリアリティです。
もちろん,“無自覚的な社会形成なんて本来的な社会形成じゃない”と考え
る方もいらっしゃるでしょう。その通りであって,現代的な社会では,自覚的
な社会形成については,物象の人格化がこれを行うわけですが,物象の人格化
の方は“この類的本質”から切り離されており,物象的な社会的関係のアンサ
ンブルなのです。だから,物象の人格化の自覚的な社会形成もまた他人(物
象)の社会形成の自覚化であって,本来的な社会形成じゃないのだということ
になります。こういうわけで,共産主義こそが本来的な社会,「生成しきった
社会」[*1],要するに自己が形成する社会になるわけです。そこでこそ,本来
的な社会形成が行われるわけです。
[*1]マルクスは共産主義は「社会状態」
(Gesellschaftzustand)であるとも言っています。け
れども,一言で「社会状態」なんて言われてもそれだけ
ではなんのことやらさっぱり解らないから,俺自身はあ
まりいい用語だとは思いませんし,俺自身はこの用語を
使いません。生成しつつある社会(werdende
Gesellschaft)に対して生成しきった社会(gewordene
Gesellschaft)と言う方がまだこれまでの“社会”(実
はエテ公の集団と五十歩百歩)との区別性を表現するこ
とができます。
>広松は、類的本質論を人間学的な理想像を想定するものとして、疎外論批判
>をしたのですが、人格論として、議論しているのですか?
俺が否定の対象として想定している廣松さんの人格論とは,類的本質否定と
アンサンブル(但し廣松さんの場合には階級的個人)としての人間の規定(従
ってまたそこに含まれている変革主体形成の規定)とを想定しています。既に
述べているように,俺にとっては,このような問題は人格論に含まれるわけで
す。ここで争う(ここでだけ争うわけではないですよ)ということは人格論と
して争うということを意味しているわけです。但し,廣松さん自身がそれを人
格論として意識していたのかということは全く別の話です。なにしろ廣松さん
自身は,物象化論も物神崇拝論も人格論も労働論も総て“物象化論”として意
識していると思いますから。神山さんが“[ism-study.50] Re: Questions
About "Person"”(1999/08/21 18:28)の中で──
>今井説では、人格論が中心で、広松に労働論が不在であ
>ることは、正面きっては展開されておらず
と言っている場合にも,そういう意味で(つまり廣松さんがそのように意識し
ているのかどうかという意味でではなく)「今井説では、人格論が中心で」と
批判しているのではありませんか?