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皆さん、こんにちは。浅川です。
人格をめぐる議論、盛り上がってきたところで途絶してしまった感じですが、非常に
興味深いのでさらに続けたいと思います。
今井さんには、以前論文執筆の過程で作った覚書に手を加えて載せるといったのです
が、それは止めにします。読み返してみると僕の覚書は、ここでのこれまでの議論と比
べてはるかに掘り下げ浅いからです。
そこでまず、これまでの議論の確認なのですが、今井さんは、[ism-study.52] で、次の
ようなシェーマを提示なさっています。
“人格a”−人格の物象化→“物象”−物象の人格化→“人格b”
(勝手ながら、「シェーマA」と呼ばせていただきします。)
このシェーマには異論がありません。
このシェーマを今井さんの説に即してより詳しく展開すると、次のようになるのでは
ないでしょうか?
“人格a”−人格の物象化
→“物象”−物象の人格化
{物象-“人格b1”(所持者)の措提
→ “人格b1”−相互承認}
→“人格b2”(所有者)
(「シェーマA’」と呼ぶことにします。)
所持者(“人格b1”)がすでに人格であるとすると、物象の人格化とは、実は、2つの段階
からなっているのではないかと思われます。最初の段階は、所持者が所持者として登場
すること、すなわち所持者が措提される。しかし、所持者の措提は、事実上の人格化でし
かなく、それが相互承認を経て所有者という形態、法的人格という現象形態を獲得す
るという、第2段階を経てはじめて、人格化は完了するとことになると思うのですが、今
井説についてのこのような解釈は正しいのでしょうか?
仮にこのような解釈が正しいとすると、ここで生じる一つの疑問は、〈諸関係のアンサ
ンブルとしての人格〉と呼べるのは、「シェーマA」では、もちろん“人格b”ですが、
「シェーマA’」では、b1なのかb2なのか、それともその両方なのかということです。
以上の2点、(1)「シェーマA’」は今井説の解釈として正しいのか(特に物象の人格化
に、所持者の登場と法的人格の措提という二段階があるという解釈)、(2)〈諸関係の
アンサンブル〉とはどの段階の〈人格〉を指すのか、をまず確認したいと思います。
質問だけではなんですので、一応僕自身の見解をまとめておきます。神山さんや今井
さんに比べぜんぜん考え抜かれたものではなく、むしろこれまでの議論を参考に、思
い付きをまとめたものです。Marxのテキストの裏付けもほとんどとっていません。
┌…物象の人格化…┐
Sachenの連関→Charaktermaske[n] (資本主義における
personlichkeit)
/ ↑ ↓
Mensh=Person (物象への拝跪) (形態規定)
“Person”
\ ↑ ↓
↑
単なる質料的媒介物としてのMensh---⇒---------------┘
(「シェーマα」とします。)
このシェーマの主要パーツを左から右に順番に抜き出して簡単な解説をつけてみま
す。
〈Mensh=Person―Sacheの連関
\単なる質料的媒介物としてのMensh〉
(Menshは常にPerson、しかし、資本主義社会では、類的本質をSacheの連関として自
己から疎外するとともに、自己を単なる質料に還元。)
〈Sacheの連関→Charaktermasken〉=物象の人格化
(物象が主体化することであり、Mensh自体の人格化ではありません)
〈質料としてのMensh→(物象への拝跪)→物象の人格(主体)化〉
(Menshは、単なる質料的媒介物=所持者)
〈Charaktermaske→(形態規定)→質料としてのMensh
“Person”←---------┘ 〉=相互承認によ
る法的人格の措提
(Menshたちは、人格化した物象を身に纏い、この扮装を互いの資格証明として承認し
あいます。)
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物象が人格化することと、Menshが物象の人格化という形態を受け取ることとは、相異
なる二つの段階だと考えています。時間的な前後関係というより、物象の人格化は、
法的人格の措提の論理的な前提だと理解しています。
Menshの自己疎外/自己還元は、「物象の人格化→法的人格の措提」によって、「解決」
されてもいます。Menshは、自分の「人格性」を疎外させて、しかし、物象に隷属しなが
ら、主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御していると思い込むという転
倒的な形で、「人格性」を「取り戻し」ているのです。 もちろん、「解決」も「取り戻
し」も転倒的なものである以上、絶えずほころびが生じ彼らの思い込みはそのつど裏
切られます。