本文
今井さん、ISMの皆さん、こんにちは。
先日、投稿した市場価値について、今井さんのほうからいくつかご質問が出されたの
で、現在、私のわかりうるかぎりで答えたいと思います。なお、「ですます調」と「であ
る調」が入り乱れて読みにくいことを、あらかじめお断りしておきます。この点につい
ては、ご容赦ください。
また、法政大学のサーバーがここ2日3日ダウンしていた都合上、今井さんの「2. 特別
剰余価値について」のコメントおよび追加については、また次回お答えしたいと思いま
す。
このメールでは、今井さんから出されたご質問のうち、第1点だけを主として取り扱
っています。第2、第3について、詳しい検討は次回に譲りますが、ここでは、簡単なコ
メントとご質問を添えることします。
まず、第2の特別剰余価値について。
> 取り敢えず,生産力上昇に基づく特別剰余価値を含んでいるような
>(つまり第1巻10章で取り扱われているような)社会的価値(gesell-
> schaftlicher Wert)を虚偽の社会的価値(ein falscher sozialer
> Wert)と尾崎君は呼ぶのかどうか?
「呼ばない」と考えてます。
これについて、別のメール(8/31)で補足のコメント・質問を受けましたが、この特別剰
余価値の詳しい展開は、以下の第1の質問の返答をベースとして導き出したものですか
ら、もし、下に書いた私の見解が正しければ、これについても詳しいレスをつけること
ができると思います。
つぎに、第3の不明瞭な個所については、たしかに文献学的ということ無意味でした。
これについては、結論が出ていないので保留したいとおもいます。
さて本題移りますが、長文のメールであるため、以下に構成を載せておきます。
>内容構成
1. 市場価値・市場価格について
2. 売り手間競争と生産者間競争について
3. 市場価値と市場価格について 再論
4. 大量支配説について
***** 市場価値・市場価格について*****
>1.市場価値とは何か(市場価値と市場価格との違い)。そして,その理論的・
> 現実的意義はどこにあるのか。
>2.(上の1.で明確にされた市場価値の概念に即して,)何故に加重平均説が正
> しく,支配的大量説は間違っているのか。
この問いに対して理論的意義と現実的意義の意味についてわからなかったので、理論的
意義については、『資本論』全体のなかでの位置付けについて、そして現実的な意義に
ついては、その事柄が示していることについて書いてみたつもりです。思いつきをその
まま文にしたせいか、ところどころごっちゃにしているところがあるとおもいますの、
その点はご容赦ください。
まず、市場価値とは何か、ということについてお答えします。
市場価値とは、商品が「市場に出てくるときの価値」(MEGA,II/3.3,S.853)であり、ある
特殊な生産部門の「諸生産物がもつ商品の一般的価値」(ibid.)である。そしてこの価値
は、「生産部門に属する商品の全量、総額を生産するために必要な労働時間」(ibid.,S.8
51-852)によって規定される。それゆえ、私は、この価値規定をもって、加重平均説が
正しいと考え、支配大量商品規定が誤りだと考えています。もう少し補足をしておけば
、市場価値とはまさに市場に出てくるときの価値であり、市場で形成される類のもので
はないということなのです。市場に出てきた商品は、さまざまな個別的価値をもってい
ようと、すでに市場価値として妥当しているのです。したがって、ここでは大量支配の
商品の個別的価値という規定は、
何の意味ももたないと思われるのです。これについては、後ほど、述べたいと思います
が、簡潔に示せば、市場価値の創出herstellenには生産者間競争が、そして支配大量の
商品が関わる市場価格の決定に関しては、売り手間競争が関わり、したがってこの2つ
を区別しな
ければならないと思われるのです。
市場価値の理論的意義と現実的な意義について、まず理論的な意義は、『資本論』の第
1巻における商品の価値規定の発展であると考えてます。価値規定の発展として私がい
わんとしていることは、第一に、市場価値の形成する労働が、「同一の、等しい、無差
別」であり、他の労働と変わらない質として表されているということであり、今ひとつ
は、個別化した労働時間が一般的な労働時間として表されていることです。市場価値の
現実的な意義は、特別剰余価値の発生とその帰属が示されていることだと思います。そ
して、この社会的価値(市場価値)が個別的価値と一致しないことが、各個別資本にとっ
ての特別剰余価値獲得への推進的な動機となります。つまり、生産者間の競争の目的と
は、特別剰余価値獲得であるといえます。
その他には、ある特殊生産部門全体をとってみれば、資本の生産物としての商品の具体
化(これは個別資本から特殊部門の総資本への移行)と位置づけられるのではないかと思
います。これは「商品大量の可除部分」と市場について注目したものです。
次に、市場価格とは何か、ということについてお答えします。市場価格とは、「市場
価値の貨幣表現」(ibid.,S.853)である、と、まず言うことができます。
この理論的意義については、第1巻第3章の価格形態の発展として考えることができます
。具体的には、1. 市場価値の貨幣的表現であること(ibid.,S.853)、2. 現実の市場価
格の平均が市場価値を示す市場価格であること(ibid.)、3. 現実の市場価格は市場価値
と共通な質的規定をもつこと(ibid.)、の3点です。この市場価格は需要と供給によって
決定されます。
さて、つぎに市場価値と市場価格との関連について、需要と供給との関係でいえば、
「需要供給が市場価格を調整」(MEW.Bd.25,S.190)し、また「市場価値が需要供給関係を
、または需要供給の変動が市場価格を変動させる中心を、調整する」(ibid.)という関
係にあります。
市場価格と市場価値との関係について、市場価値=市場価格の意義は、1部門全体を
見てみれば、「ある社会的物品に費やされる社会的労働の総量、すなわち社会がその総
労働力のうちからこの物品の生産に振り向けられる可除部分、つまりこの物品の生産が
総生産のなかで占める範囲」(ibid.,S.197)社会がこの一定の物品によってみたされる
欲望の充足を必要とする範囲」(ibid.)の一致であると考えます。
***** 売り手間競争と生産者間競争について *****
>これも,宇野派の方々なんかの限界生産者と限界供給者
>との区別を意識しているのかなぁと想像しますが,今一つ何
>を主張しているのか,解りにくいと思います。「売り手間
>競争」と「生産者間競争」とがどの点で異なるのか,そし
>てその区別がどのようにして大量支配説批判に結び付くのか,
>もう少し説明していただければと思います。
まず、お断りしておかなければならないのは、私は、宇野派の限界生産者と限界供給を
知りません。もちろん、私の勉強不足によるものですが、もしよければご教示ください
。
さて、私が、売り手間競争と生産者間競争を区別しなければならないと主張するのは
、なにやら奇異に感じられたみたいだったので、まずマルクス自身が区別しているとこ
ろ
を引用して、その論拠を説明したいとおもいます。生産者間競争と売り手間競争と区別
していると思われるところは、「資本論」の次の個所です。
「同じ生産部面の、同じ種類の、そしてほぼ同じ品質の諸商品がその価値どおりに売ら
れるためには、二つのことが必要である。/ 第1に、いろいろな個別的価値がひとつの
社会的価値に、前述の市場価値に、均等化されていなければならない。そして、そのた
めには、同じ種類の商品の生産者たちのあいだの競争が必要であり、また彼らが共通に
彼らの商品を売りに出す一つの市場の存在が必要である。同種の諸商品、といってもそ
れぞれ個別的な色合いの違う事情のもとで生産される諸商品の市場価格が市場価値と一
致して、それよりも上がることによっても下がることによっても市場価値からかたよら
ないためには、いろいろな売り手が互いに加え合う圧力が十分に大きくて、社会的欲望
の要求する商品量、すなわち社会が市場価値を支払うことのできる商品量を市場に出せ
ることができるということが必要である。」(MEW.Bd.25,S.190 /はパラグラフの切れ目
を表す)
補足までに、この前のパラグラフでは、部門内競争と部門間競争について述べられて
おり、部門内競争がなしとげることは、一つの市場価値と市場価格を作り出すことであ
るといわれています。このパラグラフでは、生産者間競争と売り手間競争が明らかに区
別されて述べられています。そして、このことを市場価値=市場価格の成立の2つの条
件としてまとめると。以下のようにまとめることができると思います
第1の条件は、いろいろな個別的価値から一つの社会的価値(市場価値)が成立すること
が必要であり、そのために生産者間の競争と生産者が共通に彼らの商品を売りに出す一
つ市場が必要であること。要するに市場価値の成立、そのためには生産者間競争、一つ
の共通
の市場が必要であるということである。
第2の条件は、要するに市場価値=市場価格のためには、社会的欲望の要求する商品量(
社会が市場価値を支払うことのできる商品量)が市場にだせるくらいの売り手たちが加
え合う圧力(売り手間の競争の圧力)が必要であることをしめしているのである。
見られるように、ここでは生産者間競争と売り手間競争とが区別され前者は市場価値に
、後者は市場価格にかかわるものとして述べられています。この姿勢は61-63草稿を通
じても一貫しているとおもわれます。ただし、そのさいに注意しなければならないのは
、草稿では市場価値=市場価格がつらぬかれていること、そして生産者がまた売り手で
もあることが、このことをわかりづらくしています。
市場価値の規定については、以下の引用文が上の主張を裏付けいるものだと思われます
。また、「競争」が生産者間競争を示していることもおわかりいただけると思います。
「ここで競争が、いろいろに違う個別的価値を、同一の、等しい、無差別な市場価値に
均等化するのは、競争が、個別的な諸利潤つまり個々の資本家たちの諸利潤内の差異、
および、それらの利潤のこの部面の平均利潤からの偏差を、そのままにしておくことに
よってな
のである。しかも、競争がこれらのことを生みだすのは、有利さの不等な生産条件のも
とで、つまり不等な労働生産性をもってつくりだされる諸商品について、したがって個
別的には不等な大きさの労働時間量を表わす諸商品について、同じ市場価値を成立させ
ることによってである。有利な諸条件のもとで生産された商品よりも少ない労働時間を
含んでいるのであるが、しかし、それが含んでいない同じ労働時間をあたかもそれが含
んでいるかのように、同じ価格で売られ、同じ価値をもつのである。(MEGA,II/3.3,S.8
53-854)
「同じ生産部面のなかの競争の結果として生ずるものは、この部面の商品の価値を、そ
の部面で平均的に必要とされる労働時間によって規定すること、つまり市場価値の成立
である。(MEGA,II/3.3,S.855)
以上の引用のなかでは、生産者間競争が問題になっており、売り手間競争は市場価値の
決定には含まないと考えられます。
ただし、前述したように市場価値=市場価格という仮定に注意しなければならないと
おもわれるのは、次の引用です。
「したがって、この場合には、一部は資本家たちどうしの競争、一部は彼らと商品の買
い手との競争、また商品の買い手どうしの競争が作用して、そのために、特殊な生産部
面の各個の商品の価値は、この特殊な社会的生産部面の商品総量が必要とする社会的労
働時間[*1]の総量によって規定されているのであって、個々の商品の個別的価値または
個々の商品がその特殊な生産者および売り手に費やさせた労働時間によって、規定され
ないということになるのである。」(MEGA,II/3.3,S.853)
*1 資本論草稿集の訳では「社会的必要
労働時間」と訳出しているが、これは
誤訳である。
上の引用について、もしかしたら三面的競争が市場価値に影響を及ぼすように読まれ
るかもしれませんが、そうではありません。ここでは市場価値=市場価格の状態につい
て述べてあるにすぎません。市場価格が市場価値に一致していると仮定すれば、市場価
値はまたは価値は「社会的労働時間」によって決まるといってもいいと思います。
さて、つぎに売り手間競争についてみてみましょう。売り手間競争と読み取れるとこ
ろは次の箇所です。
「商品の価格は何によって決められるか?
買い手と売り手の競争によって、需要と供給、提供と要求の関係によって。商品の価
格を決める競争には、三つの面がある。同じ商品がさまざまな売り手によって供給され
る。同じ品質の商品をいちばん安く売るものが、他の売り手を戦場から駆逐し、最大の
販路を確保することは、まちがいない。だから売り手たちは、たがいに販路、市場を争
う。彼らのだれもが、売りたい、できるだけたくさん売りたい、できれば他の売り手を
締め出して自分だけで売りたいのである。したがって、あるものは他のものよりも安く
売る。そこで売り手の間の競争が起こり、この競争が彼らの提供する商品の価格を押し
下げる。しかし、買い手の間の競争も起こり、この競争のほうは、提供された商品の価
格を引き上げる。
最後に、買い手と売り手の間の競争が起こる。一方はできるだけ安く買おうとし、他方
はできるだけ高く売ろうとする。買い手と売り手とのあいだのこの競争の結果は、まえ
にあげた二つの面での競争がどんな関係にあるかによって、すなわち、買い手軍内部の
競争と売り手軍内部の競争のどちらかが強いかによって、決まるであろう。産業は、二
つの軍勢を戦場で対陣させるが、それぞれの軍勢がまた味方の陣列内で味方の部隊同士
で、たたかう。味方の部隊の同士討ちがいちばん少ない軍勢が、相手方に勝つのである
。」(MEW.Bd.6,S.402-403 「賃労働と資本」)
「競争でさしあたりは弱いほうの側、それは、同時に、そこでは個人が自分の競争仲間
の集団から独立に、またしばしばその集団にたいして正反対に作用しており、またまさ
にそうすることによって相互の依存を感知するようになる側であるが、強いほうの側は
、いつでも、多かれ少なかれ、まとまった一体として相手方に対抗するのである。この
特定の種類の商品にとって需要が供給よりも大きければ、ある買い手が――ある限界の
なかで――他の買い手よりも高い値をつけ、こうしてその商品をだれにとっても市場価
値より高くするのであるが、他方では売り手たちが共同して高い市場価格で売ろうとす
る。これとは反対に供給のほうが需要よりも大きければ、ある一人がいっそう安く売り
とばすことを始め、他の人々もこれにならわなければならなくなるが、他方、買い手た
ちは共同して市場価格をできるだけ引き下げようとする。共同する側が各人に関心をも
たせるのは、ただ、それに
反対するよりもそれにつくほうがもうけが多いあいだだけである。そして、この側その
ものが弱いほうの側になれば、共同はなくなり、そうなれば各個人が自分の腕でできる
だけうまく切り抜けようとする。さらに、もしある一人がより安く生産して、そのとき
の市場価格または市場価値よりも安く売ることによってより多く売りさばくことができ
市場でより大きな範囲を占めることができるならば、彼はそうするのであり、こうして
、だんだん他の人々により安い生産の仕方の採用を強制して社会的必要労働を新たなよ
り小さい限度まで引き下げてゆく行動が始まるのである。もし一方の側が優勢ならば、
この側に属する各人が得をする。それは、ちょうど彼らが共同的な独占を実行するよう
なものである。もし一方の側が弱いほうの側であれば、各人は、自分だけでもっと強い
者(たとえばより少ない生産費で仕事をする者)になろうとすることもできるし、また少
なくともできるだけうまく切り抜けようことができる。そして、ここではだれも隣人の
ことなどかまおうとはしない。といっても、自分の行動は自分だけでなく仲間の全体に
影響するのではあるが。」(MEW.Bd.25,S.204)
ここから競争についてわかることは以下の3点である。
1.商品の価格は売り手間競争、買い手間競争、売り手・買い手間競争によって決まるこ
と。
2.売り手間競争とは商品価格を押し下げる作用をもち、買い手間競争は商品価格を押し
上げる作用をもつのである。そして売り手・買い手間競争とは、売り手はできるだけ高
く売ろうし、買い手はできるだけ安く買おうとする競争のことである。
3.売り手・買い手間競争では、強いほうは共同し、弱いほうはバラバラに行動すること
。
要するに、売り手間競争、買い手間競争、売り手・買い手間競争は商品の価格の決定
に関係するのであり、市場価格の決定には関係するが、市場価値形成には関係しないと
いうことである。また、ここで書かれている内容から第3巻第10章における第2の条件で
あった「売り手間競争の圧力」というの販路の拡大であることと理解できると思います。
以上のことを論拠にして、売り手間競争は価格決定に作用する競争であると述べたわ
けです。この二つを区別することのメリットはいくかあるのですが、ここではそのうち
の一つのメリットを利潤に関して説明したいとおもいます。
ケース1 特別剰余価値の発生について
「第三章で詳しく述べたように、相対的剰余価値の生産――(個々の資本家にとっては、
彼が、価値は生産物に対象化されている社会的必要労働時間に等しいということに刺激
されて、つまり、彼の生産物の個別的価値がその社会的価値よりも低いために彼の生産
物がその個別的価値よりも高く売れれば彼にとっては剰余価値がつくりだされるという
ことに刺激されて、主導権をとるかぎりにおいて)――とともに、生産様式の現実の全
姿態が変わって、独自に資本主義的な生産様式が(技術的にも)発生し、それを基礎とし
て、またそれと同時に、はじめて、資本主義的生産過程に対応するいろいろな生産当事
者たちのあいだの、そして特に資本家と賃金労働者とのあいだの、生産関係が発展する
のである。」(MEGA,II/4.1,S.95「直接的生産過程の諸結果」)
「こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中
のより大きい部分を剰余労働として自分のものにする。彼は、資本が相対的剰余価値の
生産において全体として行なうことを、個別的に行なうのである。しかし、他方、新た
な生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とそ
の商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなる。労働
時間による価値法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会
的価値よりも安く売らざるを得ないという形で感知されるのであるが、この同じ法則が
、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのであ
る。こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力
の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属し
ていて労働力の価値の要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きること
である。」(MEW.Bd.23,S.337-338)
この2つの引用のなかで、二つの競争を区別することから生ずるメリットとしては、
まず生産者間競争は、生産部面における個別資本の特別剰余価値の追求を目的とすると
いうことであり、そのさい「刺激」になるのは、個別的価値と社会的価値との相違である
ことである。ここでの「社会的価値」これは第3巻レベルでは市場価値と読んでもいいと
思います。そして、下の引用からわかることは、「自分の商品をその社会的価値よりも
安く売らざるを得ないという形で感知される」ということ、すなわち売り手間競争と生
産者間競争との区別が、資本家の意識で感知されることとして読み取ることができると
思います。
これらを第3巻レベルで読み込んで、敷衍すれば次のようにいえるとおもいます。すな
わち、生産者間競争では、市場価値の創出とともに個別的価値と市場価値との相違とが
明らかになる。市場価値どおりで売られるすれば、さもなくば、その他の条件を一定と
するならば、個別的価値と市場価値との相違は、特別利潤として、または欠損利潤とし
て実現され、個別資本家がこれを取得・喪失するのである。しかし、生産力の上昇によ
る特別剰余価値の生成には、市場の拡大が伴っていなければならない。もし、この市場
が拡大できないのであれば、他人の販路を奪うしかない。他人の販路を奪うためには、
自分の商品を社会的価値よりも低い価格で売ることが必要である。このことを「自分の
商品をその社会的価値より低く売らざるを得ないという形で感知される」のである。ま
た、他の資本家にとっては、こんどは市場価値どおりの価格では、市場価値以下での価
格で売る資本家に販路を奪われてしまうため、対抗して価格を下げなければならならな
い。しかし、その資本家にとって価格を下げることは、欠損利潤が発生することを意味
する。価格を下げても欠損利潤が生じさせないためには新たな生産方法を採用するしか
ない。この一連の過程を、競争の強制法則と呼んでいるものだと思います。
ケース2 利潤(率)について
「実際の流通過程では、第二部で考察したように、諸転化が行なわれるだけでなく、こ
れらの転化が現実の競争すなわち価値よりも高いか低い価格での商品の売買と同時に行
なわれるので、個々の資本家にとっては、彼らの実現する剰余価値は、労働の直接的搾
取によって定まるのと同様に彼らのごまかし合いによっても定まるのである。」(MEW.Bd
.25,S.53)
「もちろん、直接的生産過程でも剰余価値の性質は絶えず資本家の意識にのぼるのであ
って、それは、すでに剰余価値の考察にさいして他人の労働時間にたいする資本家の貪
欲などがわれわれに示したとおりである。しかし、(1) 直接的生産過程そのものも一つ
の消滅していく契機でしかないのであって、それは絶えず流通過程に移っていき、また
流通過程も生産過程に移っていくのであり、したがって、生産過程で明瞭または不明瞭
に浮かび上がっていくところの、そこで得られる利得の源泉すなわち剰余価値の性質に
関する予感も、せいぜい次のような観念と並んで同権の一契機として現われるにすぎな
いのである。その観念というのは、実現された超過分の源泉は、生産過程から独立な、
流通そのものから生ずる、したがって労働にたいする資本の関係にはかかわりなく資本
に属する運動だという観念である。」(MEW.Bd.25,S.54)
ここで言われている内容については、売り手としての資本家の意識のなかでは、すで
に剰余価値が利潤として表されてしまえば、特別剰余価値の源泉が生産過程であるであ
ることが流通部面によって、または価格の運動によって覆い隠されてしまうということ
である。
このことは、いわば売り手としての資本家が生産者として資本家から区別されているこ
とを示していると思われます。剰余価値が利潤として表されてしまえば、個々の資本家
にってみれば、利潤の増加分は超過利潤として表されてしまうのである。超過利潤には
、「ごまかし合いよって」生じたものと特別剰余価値の転化形態としての超過利潤がある
が、両方とも超過利潤として表されてしまって、売り手としての資本家には区別できな
いのである。そして、売り手としての資本家が同時に生産者としての資本家であること
が示されるのが、ケース1で述べたように個別資本家が「社会的価値より低く売らざるを
えないという形」で感知させるということなのである。
以上の2つケースを売り手間競争と生産者間競争との区別に即して「売り手としての資
本家」と「生産者としての資本家」として区別して述べてみました。補足をしておけば
、売り手間競争の考察で注意しなければならないことは、売り手と買い手とセットで考
察すべき問題と売り手と生産者とセットで考察しなければならない問題があるというこ
とだとおもいます。
***** 市場価値と市場価格について 再論 *****
ここでは需要供給に関して、市場価値と市場価格、市場価値=市場価格の意義、市場
価格と価格、について、現在、私が思っている積極的な意義を述べてみたいと思います
。
まず、市場価値と市場価格という概念は、特殊な生産部面全体を視野に入れた概念で
あるということです。これは市場価値が「生産部門に属する商品の全量、総額を生産す
るために必要な労働時間」(ibid.)によって決定されていることから導き出される結論で
す。そのさい着目すべきは、ここの生産者の労働時間によって決定されていないという
ことであり、個々の生産者にとって市場価値とは個別的価値から疎遠なものとなってい
るということです。市場価値の規定は、もちろん、商品大量をなしている可除部分とし
ての個々の商品についても妥当します。
市場価格についても同様です。なぜなら市場価格は需要と供給によって決まるからで
あり、需要と供給も1生産部門全体を想定した概念であるからです。このことをもう少
し敷衍しておきます。
需要と供給について、以下の引用をご覧下さい。
「供給と需要では、供給は一定の商品種類の売り手または生産者の総計に等しく、需要
は同じ商品種類の買い手または消費者(個人的または生産的)の総計に等しい。しかも、
この二つの総計は、それぞれ一体として、集合力として、互いに作用しあう。ここでは
個人は、ただ、一つの社会的な力の部分として、質量の原子として、作用するだけであ
って、まさにこのような形で競争は生産と消費との社会的な性格を認めさせるのである
。」(MEW.Bd.25,S.203)
この引用と前に述べたことから、次のことがあきらかになります。
1.供給とは、一定の商品種類の売り手または生産者の総計に等しい
2.需要とは、一定の商品種類の買い手または消費者(個人的または生産的)の総計に等し
い
3.二つの総計は、集合力として作用しあう。
4.需要と供給において、個人は一つの社会的な力の部分として、質量の原子として作用
するだけである。
ここから、需要と供給との関係は、売り手の総計と買い手の総計との関係であり、この
2つの集合力の作用の関係であるということである。この関係が市場価格を決定するの
である。ここでは個人とは、質量の原子、一つの社会的力の部分、としての意味しかも
っていないのである。したがって、需要と供給が市場価格を決定するとすれば、個別的
な売り手と買い手が決定するそのさまざまな価格は偶然的なものとして現われるのであ
る。このことは個々の商品の価格と市場価格とは区別しなければならないということを
示しています。そして、三面的競争の売り手の競争ではまさに後者が問題になっている
のです(以前の引用を見よ!)。この点でも生産者間競争と売り手間競争との区別をしな
ければならないことは明らかだと思います。
なお、売り手と買い手とが決定する価格が、市場価格からみれば偶然の産物して現れる
ことについて補足しておけば、「大量生産は大量購買者」を想定することがポイントだと
おもいます。このことについてマルクスは以下のように述べています。
「大量生産は、ただ大量的な購買者だけをその直接的な買い手としうるのである。した
がって、それは、現実の買い手のかわりに一つの虚構をおくのである。」(MEGA,II/4.1,
S.174, 第2部第1稿)
さて、以上のことで市場価値と市場価格とが1生産部門を想定した概念であることが明
らかだと思います。以上のことを踏まえた上で、市場価値=市場価格の理論的な意義を
積極的に述べてみたいと思います。
市場価値=市場価格の意義は、さきほど確認したように、ある社会的物品に費やされる
社会的労働の総量と社会がこの一定の物品によってみたされる欲望の充足を必要とする
総量の一致です。そのほかに意味することは、1生産部門全体の商品が抽象的な意味[*1
]で、資本の生産物として売買されたことに意義があるのではないかと思います。その
直接の論拠になる引用を以下にあげて起きます。
「商品資本としての商品資本は、商品資本として機能しはじめるとき、それは市場にあ
るのである、すなわち売りに出されているのである。資本がそこにやどる商品は、一般
商品市場の、つまり売りに出された他の商品および種類は同じだが他の資本家によって
生産され取得される商品のうちの一部分をなす。」(MEGA,II/4.1,S.189, 第2部第1稿)
*1 ここで抽象的と言う言葉を使うのは、すでに
第3巻第10章における用語法に対して抽象的
だということです。すなわち該当箇所では、
「資本の生産物としての商品」の売買という意味
は、どの生産部門でも費用価格に平均利潤をつけ
加えた価格(生産価格)で売られることを指してい
ます。これに対して、抽象的な意味での「資本の
生産物としての商品」の売買、または市場価値ど
おりの売買は、1生産部門において市場価値で売
られるということを指しています。
***** 大量支配説について *****
最後になりましたが、今井さんから出された大量支配説にかんするご質問について、コ
メントしたいと思います。下にその質問を挙げておきます。
>>大量支配の重要な点は、社会的・標準な生産条件が大量を
>>なす個別的価値に位置するということであるが、市場においては意味を
>>なさない。一定の労働時間の対象化としてしか意味をもたず、1部門を
>>一部分をなすものに過ぎない。
> 恐らく,この点が尾崎君の支配的大量説批判のポイントになるのでしょう
> が,何故に支配的大量説が間違っているのか,これだけではなかなか解りにく
> いと思います。何故に「市場においては意味をなさない」のか,もう少し説明
> していただければと思います。
結論を先に申し上げれば、市場価値を加重平均で導き出しているから、と答えること
ができると思います。もう少し補足しておくと、市場価値を前提するならば、すでにそ
の商品の市場価値が、社会的・標準的な生産条件で生産されたことを想定することにな
ります。ここで問題なるのが社会的・標準的生産条件(gesellschaftlich-normalen Prod
uktionsbedingungen または normalen gesellschaftlichen Bedingungen)なるものです
。この社会的・標準的生産条件を大量の商品に限定して理解してよいのかどうかという
問題です。社会的・標準的生産条件というのは、一部門全体の社会的・標準的生産条件と
して理解できるのではないでしょうか。少なくとも61-63草稿では、社会的・標準的生産
条件を一般的条件として規定した上で、その一般的条件の特殊的・個別的条件として上
位・中位・下位を分析しているように思えます。また、私がさきほど提起した売り手間競
争と生産者間競争との区別にもとづけば、大量を支配する商品は、市場における販路拡
大を目的とした売り手間競争において価格の決定のinitiativを握っているを意味する
のではないかと思われるのです。大量支配説をとる論者の多くは市場価格から市場価値
を導き出しているように見うけられます。また大量支配説をとる論拠の一つとして、re
geln(規制)とbestimmen(規定)の違いをあげ、regelnをもって大量大量支配説を裏付け
る論者(海野八尋氏)もいますが、ここでregelnはまた加重平均説のなかで、特別剰余価
値の確定とともに位置付けられるのではないかと思われます。ちなみに大量支配から出
発する海野氏とは対象的に加重平均説から出発するのは高橋勉氏がいます。この二人の
共通の誤りは、一方で、一度、市場価値を規定しておきながら、他方で、現象において
個別的価値の価格が市場価格へと転化し、そしてこの市場価格が市場価値へと転化して
しまうといういわば逆立ちをしていることにあると思われます。そして前者を市場価値
の規定と呼び、後者を形成および均等化と呼んでいます。これは多くの論者に共通して
見られることです。
以上、長々と私の見解を積極的に書いてみましたが、根本的に誤っている部分もある
かもしれません。皆さんからの忌憚のないご意見・ご批判・ご教示をいただければ幸いに
存じます。